ルカの福音書 15章1節~10節

 主 題  「常識を覆す、罪人をも愛する神」
招きの言葉 詩篇 139篇1節~6節
今週の聖句 ヨハネの福音書3章16節

2023.10.1(日)礼拝 勝本正實師
命 題   「神さまは善人を愛して、悪人を嫌われる」ということは、真実である面と、それだけではない面があります。今日の聖書の二つのたとえ話は、神さまの愛について語っている例え話です。主イエスがこの世界に来られたその目的を語っている個所ともなっています。さらに人間の愛と神の愛の違う面を、このたとえ話は教えています。損得で動かされる私たちと違い、聖書の神さまは損得を超えた方であり、そのことが信仰の根源であることを学びましょう。

序 言 身近な生活を用いて真理へと導く

 主イエス時代の人々が思い描いていた「神さま」とは、「私」という人間が御心にかなう生き方をしていれば愛されるが、そうでなければ退けられているというのが、一般的な考えでした。この考えは、私たちが暮らす時代でも基本的に変わりない理解だと思います。ところがそうした価値観の下では、信仰において特権的な立場の人々と、落伍者の人を生み出していきます。罪人と呼ばれる人は、犯罪者だけを意味するのではなく、律法から隔たっている人を表していました。礼拝が守れない、捧げものを十分にできない、さまざまの戒めを守れない人々は、神の祝福も来世での希望も持てない落伍者だと考えられていました。

この方たちに向けて、迷子になった羊と無くなった銀貨のたとえは、分かりやすく身近な出来事の中で、神の真理へと導く例話となりました。例話の主人公は羊飼いの男性と家庭にいる女性でした。それぞれに懸命に時間も惜しまず探した結果、失われたものを発見し、あまりの嬉しさに仲間を呼んで、もてなしをします。ひとりで喜ぶのが抑えがたい衝動となって表現されます。周りの人には、たいしたことではなかったとしても。

本論1 見失った羊と銀貨のたとえ

このたとえの中で、いなくなった羊と銀貨は、私たちのことを表しています。羊飼いと女性は神さまの心境を代弁しています。いなくなるとは、「あるべき状況にない」ということです。それを彼らは諦めたり先延ばししません。「明日になったら、もう一度探そう」とはしませんでした。気づいたのちにすぐに行動に移し、見つけるまで執拗に探します。見つかったときは自分一人の喜びで納めきれず、仲間を呼んでその思いを伝えます。そうせずにはおれないということです。

神さまの人間に対する愛もその通りだということです。ですから、主イエスは罪びとや取税人とも仲良く交わります。世間からつま弾きされていた人たちです。しかし、冷めた目と心を持つ当時の宗教的指導者は、自分たちよりも彼らを大事・優先される主イエスが、許せませんでした。ですから主イエスを批判することになりました。7節と10節の言葉は、見失われた人を見出す神の喜びが表現されています。これを受け入れるのは当時の宗教界も難しかったことでしょう。

私たちの国では、人間の存在を極悪とは考えません。失敗もすれば悪いこともする。しかし、清めを行い、謝ることで、善人に戻れると考えます。どうしようにもない極悪人は、取り除き追放するが、多くの人は改めることで、「お互いさま」「水に流す」ようにして、事を荒立てないようにしてきました。仏教でも、私たちは本質において「仏性」を持っており、煩悩のために悪にも手を染めるが、仏教信仰によって最終的には成仏できると考えてきました。そこには人間の可能性を認める前提があります。しかし、キリスト教は人間の地力再生の可能性に深く失望しています。

本論 2 喜びが損得を超える

羊飼いや女性の喜びは大きく、友を呼んで一緒に喜び、もてなすことまでしてしまいます。余計な出費がかかることなど眼中にありません。冷静に損得勘定をしないで喜びを分かち合うことを願って招待しています。ここに、パリサイ人や律法学者への批判が示されます。同国人が神の恵みを得ることを素直に喜べず、主イエスにも非難を向けてしまう彼らのゆがんだ信仰心への警告にもなっているのです。こうした態度は、クリスチャンの中にも巣くっています。自分よりも劣ると思う人を見下す態度、異教の人への軽蔑となって現れます。それは「自己義認」の姿勢です。独りよがりの信仰です。彼らは律法を守ろうとしていましだが、ほかの人を神に導くことには無頓着でした。歪んだ信仰がもたらす思い上がりです。

本論 3 背後に当時の社会の神への理解がある

キリストが地上に生きておられた時代、人々にとって「神」は厳しい試験官や警察官のような存在だったのでしょう。一人一人の人生をみて、合格を付けたり落第させる方のように見えていたのでしょう。このために、彼らは自分にも厳しく人にも厳しく接しました。彼らにとって神さまは、厳格で近寄りがたい神さまと映っていたことでしょう。正しく・厳格で・罪を赦さない神さまとしてだけ映っていたことでしょう。

しかし主イエスは、神さまは慈愛とやさしさをも持っておられる方と語られました。そして自らそのことを、ご自身の生活で表現されました。厳しさとともにやさしさを持っておられる方であると、例えを用いて表現されました。ただ、身勝手で自由気ままで優柔不断に過ごしているように見える人々には、甘くせずに厳しく接していました。ここに神さまへの誤解と偏った見方があります。

まとめ 神の目に映る私たちの価値

私たちの考える神さまはどんな方でしょう。それぞれに先入観があります。全くの白紙ということはありません。すでに色・先入観がついています。こうした思いをご存知である神様は、私たちの神観を訂正するために、このたとえ話を準備されました。あなたがどのような考えを持っておられるか考えていただき、聖書の神さまのおしえを取り込んで学んでいきましょう。悔い改める、つまり方向転換をすることが、主イエスの私たちに対する願いです。神さまは怖いだけの方ではなく、求める人には慈愛をもって望んでくださる方です。神さまが私たちにどんな態度を取られるかは、私たちの生き方・考え方がどう変わるか次第です。

祈りましょう。

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