2023.10.15礼拝 鳥居光芳師
今年の夏は、気温が30度以上の真夏日になった日が、東京都心では90日を超えたそうです。過去には、13年前の2010年に71日という記録があるそうですが、それに比べても、今年は断突に暑い夏だったということになります。しかしいくら暑い日が続いても、永遠に暑い日が続くとは誰も思っておらず、秋になればやがて涼しくなることがわかっていますから、「暑い。暑い。」と言いながらも、安心して生活を続けることが出来ました。私達の信仰も、そのようでありたいものです。どういう事かと言いますと、「私達の生活の中にいくら困難があっても、それが永久に続くわけではなく、いつかそれには終わりがある。」といつも信じているという事です。私達は信仰を持っていますけれども、持っているとは言いながら、少し苦しい状況が続くと、「この状態が、一生続くのではないだろうか。」と不安になったり、「こんな事ばかり続いて、神様って本当に居るのだろうか。」と疑ったりすることがないでしょうか。そのような時には、暑い夏の後には涼しい秋がやって来ることを信じているように、神様は、苦しい事の後には必ずその問題の解決をもたらして下さる、という事を信じていたいものです。しかし、そのように信じるとしても、そもそも苦しみなどやって来ないように神様が取り計らってくれたら良いではないか、と思われるでしょうか。そうではありません。もし人生に苦難が無いとしたら、問題を解決するために努力をする必要がなくなってしまいますから、誰でも間違いなく怠け者になってしまいます。聖書は、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)と言っています。患難に立ち向かうことによって私達の心には忍耐が生まれ、忍耐する心がクリスチャンとしての品性を生み出し、クリスチャンとしての品性が、天国への希望を生み出します。
先ほどはヨハネ14:1~11を読んで頂きましたが、1節に、・「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあります。今12弟子たちは、患難の中にあって心を騒がせていました。何故心を騒がせていたかと言いますと、13:33の最後でイエス様が、・「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」とおっしゃったからです。12弟子たちはこれまで3年間、イエス様と行動を共にして来ており、これからも生涯にわたって弟子として後について行こうと思っていたことでしょうけれども、その矢先に、肝心のイエス様が自分達を置き去りにして一人で何処かへ行ってしまうと聞いて驚いたのです。12弟子たちに限らずイスラエルの人々は、イエス様が語る素晴らしい説教を聴いて、あるいはイエス様がなさる数々の奇跡を見て、この人こそ長年自分たちが待ち望んできた救い主ではないかと期待していましたが、多くの人々に期待されているイエス様の弟子であることを、12弟子たちは誇らしく思っていたことでしょう。また誇らしく思っていただけでなく、イエス様がイスラエルの王の位に就いた暁には、自分達も良い地位に就くことが出来るかもしれない、と期待していたかもしれません。しかしそのイエス様が一人でどこかに行ってしまって、自分達はついて行くことが出来ないとすれば、そのような期待はあえなく消えてしまいます。ですから12弟子たちは、心を騒がせたのかもしれません。
この時イエス様がどこに行こうとしていたのか、12弟子たちはまだ知りませんでしたけれども、イエス様の行く所は、十字架と定められていました。十字架というのは、重罪を犯した犯罪人を死刑にするためにローマ帝国で用いられていた手段ですけれども、今イエス様は、その十字架に架けられようとしていたのです。全く罪の無いイエス様が、何故十字架に架けられなければならなかったのでしょうか。その理由については私たちは既によく知っていますけれども、それは、イエス様が全人類の罪を全て引き受けて、それを処理するためでした。全く罪の無いイエス様が人類の罪を引き受けて死ぬことによって人間の罪は処理され、赦され、イエス・キリストを信じる人は永遠の命を受けることが出来るのです。
この永遠の命は、イエス・キリストを信じた瞬間から受けることが出来ますから、私たちは今、既に永遠の命の中を生きているのです。このように、イエス様を信じている私達は、既に永遠の命の中を生きているのですから、心の中は天国なのです。しかしこの世には悪魔の働きがありますから、天国である筈の心が時として乱されてしまう事もあります。そのような時には、永遠の命の中を生きているという事が信じられなくなるかもしれませんけれども、この世の命を終えた後、悪魔のいない本当の天国に行った時には、確かに永遠の命の中を生きているという事がわかるのではないでしょうか。
このようにイエス様がこの世に遣わされて来た目的は、イエス・キリストを信じる人が永遠の命を受け、イエス様と一緒に永遠に生きることが出来るようになるためでした。しかし神様は罪を最も嫌いますから、私達が永遠の命を受けて天国に行くためには、私たちに罪が有ってはなりません。その罪を処理するために、イエス様が十字架に架かって死んで下さる必要がありました。他の誰が十字架に架かっても、私たちの罪は処理されません。それは、その誰かがどんなに立派な人であっても、人間である以上は罪を持っているからであって、罪を持っている人間が他人の罪を処理することは出来ません。借金のある人間が、他人の借金の肩代わりをすることが出来ないのと同じです。十字架に架かって人間の罪を処理することが出来るのは、全く罪の無い神の子であるイエス様以外にないのです。罪の無いイエス様だけが私たち人間の罪を引き受け、人間の身代わりとなって十字架に架かることが出来るのです。「罪の報酬は死である」と聖書にありますように、罪を持っている者は必ず死ななければなりません。本当は私たちが死ななければならないのですけれども、イエス様が身代わりになって死んで下さったから私達は死なないで済み、天国において永遠に生きることが出来るのです。「死なないで済み」とは言っても、この世で私たちが今持っている体はいつか必ず亡びるのですけれども、イエス・キリストを信じている人は、 新しい霊の体を与えられて永遠に生きるのです。新聖歌の230番に、「十字架のもとぞいと安けき、神の義と愛の会えるところ」とありますけれども、「罪人は死ななければならない」という神の義と、「しかし罪人である人間を救いたい」という神の愛が両立するところが十字架なのです。
この様に、イエスさまがこれから十字架に架かろうとしているのは、私たち人間の罪を贖い、永遠の命を与えて下さるためでしたけれども、それだけではなく、もう一つの目的がありました。それは、永遠の命を与えられた私達の為に、住むべき場所を天国に備えて下さるためでした。14:2にこのようにあります。・「わたしの父の家には、住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」とあります。イエス様が12弟子たちを置き去りにして、自分だけが先に天国に行くのは、12弟子たちを初めとして、後からやって来る私たち人間のために、住む所を用意して下さるためでした。「これがまあ、終いの住み家か雪5尺」というのは小林一茶の句ですけれども、彼が人生の晩年に移り住んだ故郷の信濃は、雪が5尺、1メートル半も積もるような所で、そのような所で残りの人生を過ごさなければならないのかと思うと、思わずため息が出たのでしょう。これに対して、イエス様が私たちのために用意して下さっている住まいは、雪に埋もれて生活に困るような所ではないであろうと思います。天国には悪魔は居ませんから、人間に苦しみをもたらすようなものは何一つないのです。天国について、ヨハネ黙示録22:5には、このように書かれています。・「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。」と書かれています。天国では、太陽よりも明るい神様の恵みの光が私達の心の中に差し込んで来るので、私達の心はいつも喜びと平安に満たされており、ため息をつくような事は何一つないのです。イエス様が私たちのために、このように素晴らしい所を用意して下さっているのですから、私達はそこで生きることの出来る幸せを待ち望みながら、この世の残された人生を歩んで行きたいものです。
これから十字架に架かるために行こうとしているイエス様は、14:4で弟子たちにこのようにおっしゃいました。・「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」とおっしゃいました。イエス様はこれまで何度も、やがてご自分は十字架に架からなければならないという事を弟子たちに伝えていましたから、ご自分がこれから行こうとしている道を、弟子たちは当然知っているものと思っていたことでしょう。その道が十字架であるということを、弟子たちの多くはそれとなく悟っていたであろうと思いますけれども、12弟子の一人であるトマスにはわかりませんでした。この後の事ですけれども、イエス様が死から甦って弟子たちの前に現れた時、彼はたまたまそこに居合わせていませんでした。そのために他の弟子たちが、「私たちは主を見た。」といくら言っても、彼は聞き入れようとせず、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った人です。このように彼は、目で見えるものは信じるけれども、目に見えない霊的な事は信じられないというタイプの人でした。しかしそのようなトマスも、ペンテコステの時に聖霊に満たされた後は、イエス・キリストこそ神の子救い主であること心から信じる人間に変えられ、インドまで伝道に出かけて行って、そこで生涯を終えたということです。
しかし聖霊に満たされていない今は、未だ霊的な事を十分に信じることができず、イエス様に尋ねました。5節ですけれども、・「主よ。どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねました。トマスには、イエス様がこれからどこへ行こうとしているのかわかりませんでしたし、それが分からないために、そこへ行く道もわかりませんでした。分かれば一緒について行くつもりだったのでしょう。イエス様がこれからどこへ行こうとしているのか、私達は知っています。イエス様は十字架という道を通って天国へ行こうとしているのです。それは、イエス様を信じる人の罪を贖い、永遠の命を与えて下さるためです。それがイエス様が天国へ行こうとしている第1の目的ですけれども、第2の目的は、先ほど申しましたように、私たちの住む所を天国に備えて下さるためでした。
イエス様が備えて下さった所に住むためには、まず天国に行かなければなりませんけれども、私達は天国へ行く道を知っているでしょうか。「分け登る、ふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」というのは、一休さんでお馴染みの一休宗純が詠んだ歌だそうですけれども、世の中には色々な宗教・宗派があるけれども、どの宗教・宗派であっても行き着く所は同じだ、という意味だそうです。しかしキリスト教を信じている私達は、「そうだ。そうだ。」と言って手放しで賛成するわけにはいきません。世の中には色々な宗教・宗派がありますけれども、聖書は、「狭い門から入れ」と言っています。どの門から入っても良いわけではないのです。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)とあります。永遠の命に至る門は小さく、その道は狭いのですけれども、滅びに至る門は大きく、その道は広いために、多くの人々はそこから入って行くのです。多くの人々がそこから入って行く理由は、その宗教が強調している御利益に引かれるからであろうと思います。「無病息災」「家内安全」など、ご利益が沢山有りそうな門から人々は入っていきます。キリスト教にも御利益はありますし、御利益を求めても良いのですけれども、イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とおっしゃいました。神の国とその義とをまず第1に求めるならば、その他の御利益は全て与えられると言うのです。しかし多くの人々は、神の国とその義などはそっちのけにして、まず第1に自分の利益を求めますから、滅びの道を行くことになってしまいます。神の国を第1に求めるという事は、例えば「ウクライナの国に1日も早く平和がもたらされますように。」と祈る事も含まれるであろうと思いますけれども、しかしそれよりも大切な事は、「自分の心の中全体が神の国となりますように。」と祈ることです。また神の義を求めるという事は、自分の考える事や行うことが、いつでも神様の目から見て正しくあるように求めるということです。
そのためには、聖書の御言葉を山道の標識のようにして、自分の歩みが御言葉から外れていないかどうか、いつもチェックしていれば良いのですけれども、いくらチェックしていても、標識から次の標識の所に行くまでに道に迷ってしまうことがあります。標識を頼りにして歩いていると、このような事がおこります。しかしイエス様は6節で、・「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とおっしゃいました。イエス様は標識ではなく、道そのものなのです。ですから、イエス・キリストという道の上を歩いて行くならば、道に迷うという事は絶対にありまません。その道は真理に繋がっており、そこを行くならば必ず永遠の命に至るのです。ですからイエス様は、道であり、真理でもあり、命でもあるのです。私達はその道を見つけ出して、そこを歩んで行かなければなりません。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」であるかもしれませんけれども、私たちはその道を必ず見つけ出さなければなりません。その道はどうやって見つけるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる事です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とあるとおり、御子を信じる者は滅びることがなく、永遠の命を持つのです。イエス・キリストを信じて、その上を歩んで行くならば絶対に迷うことはなく、必ず永遠の命に至るという事を再認識いたしましょう。