2023.11.19 鳥居光芳
キリスト教は愛の宗教だと言われていますけれども、「キリスト教の国同士で何故戦争をするのか?」と聞かれた事があります。未だ信仰を持っているような持っていないような頃の事でしたけれども、「わからない。」と答えるしかありませんでした。しかし今でも、「わからない。」と答えるしかないことに変わりはありません。今でもアフリカ大陸では民族紛争が絶えることがありませんし、ヨーロッパではロシアがウクライナに侵攻し、中東ではイスラエルのガザ地区で戦争が起きています。ロシアはロシア正教の国ですし、イスラエルはユダヤ教の国で、どちらの国も、私達が信じている神様と同じ神を礼拝しています。ですからどちらの国の人々も、レビ記19:18にある「復讐してはならない。・・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」という御言葉をよく知っている筈です。この様に私たちが信じている神は愛の神様で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」とおっしゃっているのですから、この御言葉に従っているならば、戦争など起きる筈がないと思うのですけれども、悪魔に囁かれたのでしょうか、「隣人というのは同じ国民の間だけで通用する言葉であって、国が違えば全て異邦人だ。」とばかりに、隣の国に戦争を仕掛けたりします。この様な理不尽な事を神様は勿論ご覧になっておられますから、遅くとも再臨の時には正しい審きが下されるであろうと思いますけれども、再臨を待たずとも、一日も早く正しい審きをして欲しいものです。
先ほど読んで頂きました聖書の14:12に、・「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、さらに大きな業を行います。」とありますが、イエス・キリストを信じる人は、イエス様がこの世で行った業と同じ事を行うことが出来るばかりでなく、それよりももっと大きな業を行うことが出来るというのです。ロシアのプーチン大統領も、イスラエルのネタニヤフ首相も、夫々の国を代表している権力者ですから、すぐにでも戦争をやめて、相手国と隣人になることの出来る立場にあります。しかしその二人がいつまでも戦争をやめないということは、・「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行います。」という御言葉と正反対の事をしているわけで、二人とも、自分たちのしている間違いに一日も早く気がついてほしいものです。
今日開いている聖書の個所でイエス様は、「祈りは聞かれる」という事を保証して下さっています。14:13で、・「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」とイエス様はおっしゃっており、更に14節で、・「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」と念を押すようにおっしゃっています。このイエス様の言葉は、12節の、・「まことに、まことに、あなたがたに言います。」という言葉で始まっている続きで、イエス様がこのように「まことに、まことに、」とおっしゃるのは、特に大切な事を話される時です。ですから先ほどの、・「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」という言葉も、・「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」という言葉も、非常に大切な言葉であって、その時の思い付きなどで言われた言葉ではありません。もしこの言葉どおりにならないならば、イエス様は大ウソつきと言われても仕方がないほどの重大な言葉です。
イエス様は、ご自分には何でもする権威がある事を示すために、数々の奇跡を現されましたが、ヨハネ福音書には、そのうちの七つの奇跡が取り上げられて書かれているという事を、以前にお話ししたことがあります。
最初の奇跡は、ヨハネ福音書第2章に書かれている「カナの婚礼」の奇跡で、水をぶどう酒に変えた奇跡です。婚礼の途中でぶどう酒が足りなくなってしまったのですが、そのような不祥事は後々までも人々のうわさになって語り継がれ、花婿にとっては一生の恥となってしまいます。イエス様は、この様な目出度い席の雰囲気を壊さないためにも奇跡を起こされました。
第2の奇跡は、第4章に書かれている、病気で死にかかっている役人の息子を癒した奇跡です。「あなたの息子は治る。」と言われたイエス様の言葉を役人が信じた時に、息子の病は癒され、ご自分と遠く離れた所に居る人に対しても、イエス様は奇跡を起こすことが出来るという事を示されました。
第3の奇跡は、ベテスダの池で38年間も病気が癒されることを願って伏せっていた人に、イエス様が、「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われると、その人は直ぐに立ち上がって癒されたという事が第5章に書かれています。御言葉を信じて、そのとおりにする時に奇跡は現れる事を示しています。
第4の奇跡は第6章に書かれていますが、五つのパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たした奇跡です。空腹を満たしただけでなく、余ったパン屑を集めると、12の籠にいっぱいになったとまで記されています。余ったパン屑のことまで何故聖書に書く必要があったのかと言いますと、5000人以上の人々が霊的に満腹になったというのではなく、本当のパンを食べて肉体的に満腹したのだという事を示すために、本物のパンが余ったことまで書いています。五つのパンと2匹の魚を、どうやってそんなに増やすことができたのか、それはわかりませんけれども、わからないからこそ奇跡なのであろうと思います。これは、衣食住などの生活面においても奇跡が現されることを示しています。
第5の奇跡は、ガリラヤ湖の水の上をイエス様が歩いて来られたという奇跡で、これも第6章に書かれています。自然もイエス様の支配の下にあるという事を示しています。
第6の奇跡は、生まれつきの盲人の目を見えるようにした奇跡で、第9章に書かれています。イエス様が地面につばきをし、泥を作ってそれを盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。盲人がそのとおりにすると、目が見えるようになったという奇跡です。この当時、つばきには体に対して何らかの治療効果があると考えられていたのかもしれませんけれども、それ以上にこの奇跡は、この盲人がイエス様から言われたとおりに実行した時に初めて効果が現れたところに特色があります。奇跡は、御言葉を信じるだけでなく、従うところに現れる事を示しています。
更に第7の奇跡は、死んだラザロを生き返らせた奇跡でした。イエス様は、死人をも甦らせる力を持った方である事を示しています。
ここで、先ほどのヨハネ福音書14:12に戻りますが、そこには、・「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、さらに大きな業を行います。」と書かれていました。イエス様は死んだラザロを甦らされましたけれども、御言葉によれば、・「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、さらに大きな業を行います。」と言うのですから、イエス・キリストを信じる者は誰でも、死人を生き返らせることが出来るということになってしまいます。しかし現実には、そのような事はありません。何故でしょうか。それは、死んだ人間は既に神様のご支配の中に移ったのですから、それを人間が取り返そうとすることは、神様の御心に適っていないからではないでしょうか。13節に、・「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」とありますけれども、イエス様の名によって求めるという事は、私達がイエス様に代わって神様に求めるという事ですから、求めることがイエス様の御心に適っていなければなりません。人間が死の領域にまで立ち入るという事は神の御心に適った事ではないので、私たちがいくら求めても、死んだ人間は甦らないのではないでしょうか。
マルコ11:23に書かれている事ですが、 イエス様はこのようにもおっしゃいました。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」とおっしゃいました。よく聞く話ですけれども、日曜学校でこの御言葉を聞いた生徒が、本当に山が動くかどうか試してみようと思って、寝る前に祈ったそうです。あくる日ワクワクしながら窓を開けて外を見てみましたところ、昨日と同じように目の前に山があったのでがっかりしたという事です。このような事があったために、この子が日曜学校に行くのは嫌になったのならば大変ですけれども、そのような事は無かったようなので、それはそれなりに幸いでした。この子がいくら熱心に祈っても、意味もなく山が動く事は神様の御心ではありませんから、祈りが聞かれなかったのは止むを得ない事です。このように祈りは神様の御心に適っていることが必要で、例えば他人を陥れてまでも成功しようと願ったり、「果報は寝て待て」とばかりに、自分で全く努力をすることなく利益だけを求めようとする祈りは、御心に適いませんから聞かれません。Ⅰヨハネ5:14にも、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」という御言葉があります。
また先ほどの御言葉に、「この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」とありますように、祈る時は信じて祈らなければなりません。先ほどの日曜学校の生徒は、信じて祈ったわけではなく、山が動くかどうか試してみようとしただけで、そのような祈りは聞かれません。イエス様でさえも、不信仰な人々の為には奇跡を現わすことは出来ませんでした。イエス様が故郷のナザレに帰った時、そこでは何一つ奇跡を現すことは出来なかったと聖書に書かれています。マルコ6:5,6にこのようにあります。「そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」と書かれています。「この祈りはいくら神様でも無理だろう、と疑いながら祈ると、疑った通りの結果になってしまう。」と言った牧師がいます。イエス様はマタイ21:22でも、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とおっしゃっています。信じて祈りましょう。
イエス様は間もなく十字架に架かってこの世から去って行こうとしており、私たちと神様との間を取り持つ人が居なくなってしまいますが、そうしたら誰が私達の祈りを神様に取り次いでくれるのでしょうか。それは聖霊です。イエス様がこの世からいなくなっても、その後に聖霊が与えられます。16節に、・「そしてわたしが父にお願いすると、そうすれば、父はもうひとりの助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにして下さいます。」とありますが、その助け主というのが聖霊です。言うまでもなく聖霊は、父なる神様と子なるイエス様と共に、三位一体の神様です。三位一体というのは、父・子・聖霊というように三つの人格を持っていますけれども、本質は一つであることを指しています。子なる神であるイエス様は、この世にお出でになった時は肉体を持っておられましたから、人間の目に見えて分かり易くありましたけれども、肉体という制約がありましたから、自由に何処にでも出かけるという事は出来ませんでした。ですから、イエス様が福音を宣べ伝えたのは、イスラエルの国の中だけでした。
しかしイエス様の後に遣わされて来る聖霊は、肉体を持っていませんから空間的な制約を受けることがありません。世界中のどこにでも一瞬のうちに行くことが出来ますし、世界中のどこであっても、複数の個所に同時に存在することも出来ます。そのために、聖霊がこの世に来られたことによって、福音は世界中に一気に広がって行きました。その聖霊は何処にでも存在することが出来、私達の心の中にも入り込むことが出来ます。しかし私たちの意思を無視して、無理に入り込んで来るような事はありません。私たちが心を開いて迎え入れた時にだけ、入って来て下さいます。それは、ヨハネ黙示録3:20に、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあるとおりです。この様に聖霊は霊であって肉体を持っていませんから、何処にでも自由に行くことができますし、入り込むこともが出来ますけれども、目には見えませんから、私たちが信じて心を開かない限りはその存在に気がつく事はできず、力になってもらうことも出来ません。しかし心を開いて聖霊を受け入れた人々、即ち「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と聖書は言っています。これは、神様と私たち人間との間に聖霊が介在して働いて下さっている結果です。
今日のメッセージのタイトルは、「祈りは聞かれる」ですけれども、祈りは聖霊を通して聞かれます。しかし聖霊は三位一体の神様ですから、父なる神様とも、子なるイエス様とも無関係ではありません。ですから祈りは、聖霊を通して、イエス・キリスト名によって父なる神様に祈ります。イエス・キリストの名によって祈るという事は、祈りはイエス・キリストの御心に適うものでなければいけないという事です。また祈る時には、信じて祈ることが必要です。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とマルコ11:24 に書かれているとおりです。信じて祈るならば、そのとおりになりますけれども、「そのとおりになる」ということは、「祈ったとおりになる」ということではありません。全能の神様が、祈った事よりももっと良い形に変えて応えて下さることがあります。その時に、祈りが聞かれなかったと思うのではなく、最善の形で応えて下さったと信じて受け取る心の余裕が必要です。また、祈りは直ぐに聞かれるとは限りません。神様が最も良いと思われる時に応えて下さいますから、諦めずに祈り続けなければなりません。イエス・キリストの御名により、信じて、諦めないで祈り続けましょう。