ルカの福音書 7章36節~50節

2023年12月3日 勝本正實

主 題  「多く赦された者が、多く愛する」

招きの言葉 詩篇 113篇1~4節    今週の聖句 ミカ書6章8節

命 題   人は置かれた環境に大きな影響を受けます。善人として生きることもできれば、悪人として生きざるを得ない人もいます。パリサイ人と罪深い女は、まったく違った環境と立場で暮らしていました。しかし主イエスは、世間一般の常識・価値観で人を見ることなく、その人の内面に目を止められます。その結果、世の中の常識と異なり、神の目に義とされたのは罪ある女性であり、宗教的に熱心と見えたパリサイ人は、退けられました。パリサイ人はこののち、どう生きたでしょう。それが問われており、私たちにとっても課題です。

序 言 環境は人生を左右する

 主イエスはあるとき、パリサイ人の家庭に食事に招かれました。イスラエルでは、貧しい人に施すのは善行として勧められる行為でした。主イエスはどんな人が待っていようと気にしないで応じられました。その場面に、罪深いと評判の女性が招かれざる客のように入ってきました。こうした宴席に、無断で来ることもイスラエルでは、珍しくなかったようです。彼女は、自分の涙で主の足を濡らし、捧げものとして香油を塗りました。普段なら、褒められる行為ですが、この女性のしたことは、パリサイ人たちをとても不愉快にしました。招いてくれた主人(パリサイ人)の胸の内を見抜かれた主イエスは、たとえ話によって、主人の過ちを正されます。このためにたとえ話を用いられます。

本論1 恵まれた人の思い上がり

 私たちの暮らす世には豊かな人もいれば、貧しい人もいます。貧富の差は昔から存在します。また人間として立派な人もいれば、自己中心で悪い人もいます。パリサイ人は、経済的に豊かであり、社会的な信頼もあり、信仰面でも立派な人と見られていました。多くの人が彼らを尊敬していました。それと同時に、世の中の罪人とされる人には、事情も分からず冷淡でした。彼の家にやってきた女性に対しては、ひどく軽蔑していました。ところがこの女性は、自分のこれ迄の人生を悔いていました。主イエスの前に、ただ泣くほかありませんでした。彼女にできたことは、涙で主の足を濡らし、香油を注いで、自分の髪の毛で拭くことでした。こうしたことは普通しません。とても不潔だからです。パリサイ人が、招いておいた主イエスに対して礼儀を欠いていたことが記されています。足を洗う水も用意せず、あいさつの口づけもしません。祝福のオリーブ油もつけてくれません。それは、彼が主イエスを本当は尊敬も親しみも感じていなかったことを表しています。普段なら、これは客人に対して失礼なことです。パリサイ人のこうした自分本位の思い上がりを正す必要がありました。

本論 2 主イエスの例え話の意図とは

主イエスが語られたたとえ話は、とても分かりやすい話です。子供でも十分理解できます。主がこのたとえで語られていることは、多く赦された人は、多く赦してくれた人に感謝し、少しだけ赦された人は、少しだけ愛するものだということです。どのくらい赦されているか、愛されているかということは、簡単に目分量で示せることではありません。それは、その人自身の心の思いが決めることです。自分の人生において、赦された経験や愛された経験を思い起こしてみてください。(考える‼)「客観的にどうかを調べる」ことはできませんが、自分自身がどう思うかで、こちらの反応が変わってきます。赦す・赦される、愛する・愛される、ということは、量で示したり、見える形で示すことは難しいものです。罪深いとされた女性は、自分が赦されたことを大きく受け止め、パリサイ人は神に赦されていることを小さく感じていたのです。(普段の私たちの経験の例を考えてみてください。)

本論 3 罪の中を生きた女性の悔い改め

この女性が具体的にどんな罪深さを持っていたかを知る手掛かりは、記されていません。一般的には、彼女は遊女をしていたと考えられています。今でもこうした職業の人をほめることはしないでしょう。しかし、私たちはもしこの女性が、パリサイ人のように経済的に恵まれ、教育も受けられ、育っていたなら別の人生を送っていただろうと想像することはしません。また、逆にパリサイ人が貧しい家庭に生まれ、教育も受けられなかったら、ひょっとして盗みをしたかもしれないとも考えません。

つまり、人は置かれた状況に左右されるのであり、本来その人の持つ人格や品性は、環境に大きく左右されることに気づきません。善人として生きられた人と、悪人として生きざるを得なかった人を見抜けるのは、神さまのみです。主イエスは、パリサイ人の人生と罪ある女性の人生をもっと広い観点で見抜いたうえで、二人がどのように生きようとしているかに目を止められているのです。このたとえ話は、パリサイ人への警告・悔い改めの勧めとして語られています。

まとめ  人を赦す権威をもつ主

この女性は、自分の生き方を悔いています。そのため主イエスは、この女性に罪の許しを宣言されました。この女性は「罪の赦し」までは期待していなかったかもしれませんが、思わぬ祝福を得ました。同時に宿題も与えられました。つまり、これからは今までの生活を続けることはできないということです。ここで許されても今まで通りであれば、結局許しは無駄になります。さあ、この女性はこの後どんな人生を送るのでしょう。

一方、パリサイ人は生き方を変えることが出来るでしょうか。もし、相変わらずの生き方をすれば、主イエスのたとえ話は無駄になります。これが主の彼への問いかけです。

主イエスは、罪を赦す権威を持っておられる、つまり神の立場を持っておられるということです。人を真実に許せるのは、神だけだからです。その権威を持って、その女性に罪の許しの宣言をし、「あなたの信仰があなたを救いに導いた」と励ましたのです。これからは、過去のことをくよくよせず、前を向いて生きていきなさいということです。私たちにも同じ宣言が語られています。自分がどう思うかではなく、み言葉がどう語っているかが大切です。

み言葉は、私たちへの赦しを語るだけでなく、どう生きるべきかも示します。

祈りましょう。

タイトルとURLをコピーしました