ヨハネ13:1~17 互いに仕え合う

2023.7.16 あらき野礼拝

最近は暑中見舞いの葉書を出すことも受け取ることもほとんど無くなって、夏の時候を表す言葉である猛暑や盛夏・残暑などという言葉は、新聞やTVの見出しなどで見るばかりで、自分の手で書くことはほとんど無くなってしまったような気がします。
今日開いている聖書の箇所は、イエス様が12弟子たちの足を洗われた個所で、別に夏とは関係がありませんけれども、その時イエス様は、「あなた方も、互いに足を洗い合わなければなりません。」とおっしゃいました。暑さで蒸し暑い時には、他人の事まで構っていられないかもしれませんけれども、その様な時にも、互いに相手の足を洗い合うくらいの余裕があれば、暑い夏も少しは過ごし易くなるのではないでしょうか。イエス様が12弟子たちの足を洗われたのは過ぎ越しの祭りの時でしたから4月でしたけれども、イライラしやすい夏にこそ、互いに足を洗い合う心の余裕が欲しいものです。
13:1に、・「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」とありますが、今日お話しする事は、過ぎ越しの祭りの時に起きた出来事です。過ぎ越しの祭りというのは、皆様よくご存じのように、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神様が解放して、約束の地カナンにまで導き出して下さった事を記念する祭りです。イスラエルの民が国から出て行ってしまったら、エジプトの労働力はそれだけ減ることになりますから、エジプトの王は、彼らが国から出て行くことをなかなか許そうとしませんでした。しかし神様が、一夜のうちに、エジプト中の家庭から全ての長子の命を奪うという禍を下された時、エジプトの王は恐れ驚いて、彼らがエジプトの国から出て行く事を許しました。しかしエジプト中の家庭から長子の命が奪われるという悲惨な出来事があった時、あらかじめ家の門柱と鴨居に羊の血を塗っていたイスラエルの家だけは、禍が過ぎ越して行きましたので、イスラエル人の家からは、死ぬ人は一人も出ませんでした。その出来事を感謝し、記念して行われるのが過ぎ越しの祭りですけれども、門柱と鴨居に塗った血は、後世のある出来事を予告するものでした。それは、それから約1500年後の事になりますけれども、神の子であるイエス様が、過ぎ越しの祭りの時に、十字架の上で血を流すことを予告するものでした。神様の言葉を信じて家の門柱と鴨居に血を塗ったイスラエルの家に対しては、禍が過ぎ越して行ったように、イエス様が十字架の上で流された血は、この私の罪を赦すための血であったということを信じる人に対しては、禍が過ぎ越して行って、永遠の命が与えられるのです。その事のためにイエス様は十字架に架かられたのです。
イエス様がこの世の最後に祝われた過ぎ越しの祭りについては、四つの福音書の全てに書かれていますけれども、書かれている内容は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書とヨハネ福音書とでは大きく異なっています。三つの共観福音書では、過ぎ越しの祭りの時にイエス様が聖餐式を制定されたという事に夫々触れていますけれども、ヨハネ福音書では、その事については全く触れていません。例えばルカ福音書では、その22:19,20で、聖餐式の制定についてこのように触れています。「22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」と書かれていますが、イエス様が、「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」とお命じになったことによって、それから2000年経った今でも、世界中のほとんどの教会で聖餐式が守られています。
全ての共観福音書が聖餐式について触れているのに、ヨハネ福音書だけが何故触れていないのか理由はわかりませんけれども、ヨハネ福音書が書かれた時には、既に三つの共観福音書が世に出ていたために、また同じ事を書くよりも、共観福音書には書かれていない出来事を書いた方が良いと、ヨハネは判断したのかもしれません。共観福音書には書かれていない事というのは、イエス様が弟子たちの足を洗われた洗足の出来事です。
13:4に、「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」とありますが、最後の晩餐の最中にイエス様は突然立ち上がって、弟子たちの足を洗おうとされたのです。この世で最後になる晩餐の最中に、何故イエス様は弟子たちの足を洗おうとされたのでしょうか。それは、ルカ22:24に、このように書かれている事から大体の想像がつきます。そこには、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。」と書かれています。最後の晩餐をしている最中に、12弟子たちは、「自分達の中で、誰が一番偉いのだろうか。」と議論を始めたのです。それを聞いていたイエス様は、それに正しく答えるために、彼らの足を洗おうとされたのです。イエス様はたらいに水を入れ、上着を脱いで、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗おうとされました。手ぬぐいというのは、私達が使っているフェースタオルのような小さなものではなく、一方の端を自分の腰に巻き付けても、他方の端で相手の足を自由に拭くことが出来るくらいの、長い手ぬぐいでした。それを腰に巻いた姿は、来客があった時にお客様の足を洗い、そして拭くことを自分の仕事としている奴隷のような姿でした。イエス様は、奴隷のようになって、弟子たちの足を洗おうとされたのです。そして言われました。14節ですが,「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」と言われました。イエス様の弟子である限り、誰が偉いという事はなく、互いに足を洗い合って、互いに仕え合う関係であって欲しいとイエス様は願われたのです。
当時イスラエルの国はローマの支配下にありましたから、ローマに通じている幹線道路は石畳で舗装されていたかもしれませんけれども、ほとんどの道は舗装されていませんでした。当時の履物はサンダルでしたから、ちょっと歩いただけでもすぐに足が汚れてしまいました。そこでイスラエルの宿屋では、客が到着した時にまず最初にする事は、履き物を脱がせて足を洗う事でした。宿屋には、客の足を洗うための奴隷を置いておくのが当たり前でしたけれども、イエス様と弟子たちが最後の晩餐の時に用いた家は、そのようなもてなしの準備が整っている宿屋ではありませんでした。マタイ福音書によりますと、弟子たちがイエス様に、「どこで過ぎ越しの食事をしましょうか?」と聞いたとき、イエス様はこのようにおっしゃっています。・「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」(マタイ26:18,19)と書かれています。これによりますと、イエス様達が過ぎ越しの食事をした処は普通の宿屋ではなく、イエス様の知り合いの家だったようです。そこには、イエス様の一行が到着した時に足を洗ってくれる奴隷は居なかったようで、そのような時には、客が自分達で互いに洗い合うのが普通だったようです。しかし「誰が一番偉いだろうか?」と議論し合っているような弟子たちですから、互いに相手の足を洗おうとする気は全くなかったのでしょう。自分たちの師であるイエス様の足くらいは誰かが洗ったかもしれませんけれども、弟子達が互いに、「あいつが洗うべきだ。」思っていたとしたら、結局誰も洗わなかったかもしれません。
「自分達の中で誰が一番偉いだろうか」という議論を弟子たちがしたのは、この時が初めてではなく、これまでも何度かしていたようです。マルコ9:33に、このような事が書かれています。「カペナウムに着いた時、イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」」という事が書かれています。この時弟子たちは、何と答えたでしょうか。聖書には、「9:34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」と書かれています。弟子たちは、イエス様の前に恥ずかしくて、何を論じ合っていたのか答えることができなかったのです。
しかし今回は、最後の晩餐の時に、このような議論があったのです。それは、今までとは比べることの出来ない程深刻な事でした。というのは、13:1に、・「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」とありますように、この時イエス様は、間もなくご自分が十字架に架かり、父なる神様のみもとに帰って行く時が近いことをご存知だったのです。それは、御自分が弟子たちの前から居なくなるという事です。しかしその弟子たちは、「自分達の中で、誰が一番偉いだろうか?」と議論し合っている有様です。このような弟子たちの前からイエス様がいなくなったら、どうなるでしょうか。弟子たちはバラバラに散ってしまい、世界中への福音伝道を目指して弟子たちを訓練してきたイエス様の努力は、水泡に帰してしまいます。
そのようになる事は絶対に避けなければなりません。そこでイエス様は4節にあるように、・「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」のです。そして弟子たちの足を洗い始められたのです。弟子たちは訳が分からず、されるままにしていたようですけれども、12弟子たちのリーダー格であったペテロは、流石に黙っていることが出来ず、イエス様に言いました。・「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」と言いましたが、この言葉の中には、弟子である自分達がイエス様の足を洗わなければいけないのに、それをしなかったという自責の念と、師であるイエス様が弟子である自分たちの足を何故洗ってくれるのかわからないという戸惑いの思いが、複雑に入り混じっていたことでしょう。
その様なペテロの戸惑いに対して、イエス様はおっしゃいました。7節ですが、・「わたしがしていることは、今はわからなくても、後でわかるようになります。」とおっしゃいました。イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、単に足の汚れを落としてきれいにするというのが目的ではなく、弟子たちには洗い潔めなければならない罪が有るという事に気づかせるためであったのです。しかしこの時の弟子たちは、イエス様の弟子である自分達に罪が有るなどとは思ってもいませんでしたから、師であるイエス様が自分達の足を洗って下さる本当の意味は分かりませんでした。しかし、自分達には罪など無いと思っていた弟子達は、イエス様が捕らえられた時、散り散りになって逃げてしまったのです。リーダー格だと自認していたペテロも、「イエスなど知らない。」と3度も否定したのです。罪の中でも最も大きな罪は、何か悪い事をするという事ではなく、神様を否定する事です。その点で、イスカリオテのユダは大きな罪を犯したのです。彼は、イエス様が神の子であることを最後まで認めることが出来ず、イスラエルの国をローマから独立させてくれる人間としてのリーダーであることを期待していたのです。それは、神の子であるイエス様を否定する大きな罪でした。
しかし、イエス様が神の子であることを信じている人には全く罪が無いかというと、そうでもありません。イエス様を信じている人に対しても悪魔は手を伸ばしてきて、罪を犯させようとします。悪魔はイエス様までも誘惑しようとしたのです。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、悪魔はイエス様を高い山に連れて行って、この世の全ての国々とその栄華を見せて言いました。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」(マタイ4:9)と言いました。この世の栄華はイエス様の手の中にあるのではなく、悪魔の手に握られているのです。悪魔からそのように誘惑された時、イエス様は、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」と言って直ちに誘惑を退けられましたけれども、私達はどうでしょうか。悪魔からこの世の栄華を見せられて、「皆あなたにあげましょう。」言われたら、すぐにふらふらと引きずり込まれてしまうことはなでしょうか。「誰が一番偉いのだろうか。」と議論し合っている弟子たちには、十分にその惧れがありました。
聖書では悪魔のことを「この世の君」と言っているように、この世は悪魔によって支配されているように見えます。ですから、戦争にしても自然災害にしても、「神がいるなら、どうしてこんな事が起きるのだろうか。」と思うような事が起きます。悪魔は誰であっても自分の方に引きずり込もうとしますから、私達がこの世に生きている限りは、悪魔から誘惑を受けることは避けられません。誘惑を受けても罪ではありませんけれども、それに負けると罪になってしまいます。「互いに愛し合いなさい。」というイエス様の教えを理解せず、「誰が一番偉いのか。」と議論し合っている弟子たちは、罪の中に一歩足を踏み込んでしまっているのかもしれません。罪を犯したと気が付いたら、すぐに悔い改めるのです。
イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、汚れを洗い落すだけでなく、罪を洗い潔めるという意味がありました。イエス様は神の子ですから、私達は誰でも、罪を持ったままでイエス様に近づくことは出来ません。そこでイエス様は8節にあるように、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とおっしゃいました。イエス様は、罪人とは関係を持てないのです。イエス様に足を洗っていただくことによって、自分には罪があるという事に気がついたペテロは、慌てて言いました。9節ですが、・「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言いました。これに対してイエス様はおっしゃいました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」とおっしゃいました。当時他所の家に招かれて出掛ける時には、出かける前に家で水浴をし、体を潔めてから出掛けるのが普通でした。イエス様と弟子たちもこの時、過ぎ越しの食事をする家に来る前に、どこかで水浴をしてきたのであろうと思われます。ですからイエス様は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」とおっしゃいました。
このイエス様の言葉の中の「水浴」という言葉には、水の中にどっぷりと体を沈める文字どうりの水浴という意味の他に、洗礼という意味もありました。イエス様は、「洗礼を受けた人は、全身が聖いのですから、もう一度洗礼を受け直す必要はなく、汚れた所だけを洗い清めればよいのです。」とおっしゃったのです。信仰に真面目に取り組んでいる人ほど、自分の心の汚れによく気が付きますから、「自分は洗礼を受けているのに、本当に潔められているのだろうか?」と自分の信仰を疑うことがあるかもしれません。しかし私達は、父なる神と子なる神と聖霊なる神からなる三位一体の神の名によって洗礼を受けたのですから、私達が自分でそれを疑うならば、それこそ大きな罪を犯すことになります。イエス様が、「洗礼を受けた者は全身が聖いのです。」と言って下さるのですから、私達は間違いなく聖いのです。ですから、私達が罪を犯したと気が付いた時は、自分の信仰全体を疑うのではなく、犯した罪だけを悔い改めればよいのです。「誰が一番偉いのだろうか。」と論じあっている12弟子たちも、彼らの信仰全体が汚れているのではありません。「自分が一番偉い。」という間違った思いだけを悔い改めればよいのです。そして互いに足を洗い合えば良いのです。それは、互いに仕え合うという事です。私達も、そのようにいたしましょう。

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