ヨハネ13:31~38 旧い愛と新しい愛

2023.9.17(日)礼拝 鳥居光芳

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がありますけれども、9月も半ばを過ぎて少し涼しくなってきましたから、7月8月の暑かった記憶は、過去の思い出として過ぎ去って行きつつあります。1年中春のような気候であったならば、どんなにか過ごし易いだろと思う事もありますけれども、夏は夏、冬は冬という暑さ・寒さの中を通ることが、人間の健康のためには良いのであろうと思います。天変地異の事などを考えますと、「神様の為さる事は、すべて時にかなって美しい」、とばかりは思えない事もありますけれども、それは永遠の先まで見通すことの出来ない不完全な人間が思う事であって、永遠の未来まで見通しておられる神様からすれば、「全ては、時にかなって美しい」のであろうと思います。
今日ヨハネ福音書の13章を開いている事も、「全ては、時にかなって美しい」という範疇に入っていれば嬉しいのですけれども、時にかなって美しくなるためには聖霊の助けがなければなりません。どうか聖霊が豊かに働いて、これから語られるメッセージが、時に適った美しい御言葉として、全ての方々の心の奥深くにまで届いてくれれば幸いです。
今日開いていますヨハネ13章には、イエス様が12弟子たちと共にした最後の晩餐の様子が書かれています。この晩餐の後、イエス様は祭司長たちに捕らえられて、十字架に架けられてしまいますけれども、そのようになる事をイエス様は前もってご存知でした。それが如何に辛い厳しい道であるかという事もわかっていましたけれども、そのような中にあってもイエス様の心は、自分の事よりも弟子たちの方に向けられていました。弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いのか議論し合っているのを見たイエス様は、立ち上がって自ら弟子たちの足を洗われましたけれども、それも、イエス様の心が弟子たちに向けられている事の表れでした。この時イエス様は、誰が偉いのか議論することよりも、互いに仕え合うことの大切さを説かれました。この世でいくら偉くても、だからと言って天国に入ることが出来るわけではなく、喜んで人に仕える遜った人こそが天国では歓迎されることを教えようとしたのではないでしょうか。弟子たちにとっては、イエス様に足を洗っていただいたことが、イエス様から受けた最後の実践的な教えになってしまいましたけれども、最後であるだけに、この教えは12弟子たちの心の奥深くにまで届き、末永く心に残ったことでしょう。
12弟子たちは、イエス様から大きな愛を受けていました。イエス様が捕らえられた時には、彼らはイエス様を見捨てて逃げてしまいましたけれども、イエス様から受けている大きな愛を知っていた彼らは、その愛から最後まで逃げ切ることは出来ず、イエス様が死から甦られた時には再び戻って来ます。しかしイスカリオテのユダは、他の弟子たちと同じようにイエス様から愛されていたにもかかわらず、その事に気が付いていなかったために、滅びの道をまっしぐらに進んでしまいました。私達もイエス様から大きな愛を受けていますけれども、その事に気が付いていないと、ユダと同じような過ちを犯してしまいます。
31節に、・「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。』」とあります。ユダは最後の晩餐の途中に席を外して出て行きましたけれども、それは、イエス様を捕えようと躍起になっている祭司長たちに、イエス様の居場所を知らせるためでした。居場所がわかりさえすれば、祭司長は直ちに役人を遣わして、イエス様を捕えることでしょう。何とかしてユダの信仰を立ち直らせようと心を砕いて来たイエス様も、とうとうここで彼を見放してしまわれたのでしょうか。イエス様は、ユダが出て行くままにされました。しかし、「愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント13:8)とありますように、イエス様のユダに対する愛も絶えることはなく、この時にもなおイエス様は、ユダを見放してはいませんでした。しかしユダはイエス様のそのような愛を受け止めようとはせず、イエス様の居場所を祭司長たちに知らせることによって、イエス様を彼らに売り渡してしまいました。その挙句、彼は自分の生きる道を失い、身を投げて自殺するより他にありませんでした。イエス様からユダに向けられた愛は絶えることがありませんでしたけれども、ユダがその愛を受けることを拒んだ結果です。
イエス様から愛されていたのは、ユダだけではありません。ペテロも、ユダと同じように愛されていました。しかしイエス様から沢山愛されている人ほど悪魔からの働きかけが強く、悪魔はその人をイエス様から引き離そうとします。ペテロも悪魔から狙われて、「イエスなど知らない」と3度も否定することになってしまいました。しかしイエス様は、ペテロが御自分を否定する事を予め知っており、ペテロのために祈りました。イエス様はペテロに言いました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)と言いました。イエス様はペテロを大変愛しておられ、彼の信仰が無くならないように絶えず祈っておられました。そればかりか、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言って、ペテロを励まされたのです。それによってペテロは、どれほど自分がイエス様から愛されているかという事に気づいたのです。その事に気づいたペテロは、人を愛することの大切さを悟り、ローマ皇帝の迫害に苦しんでいる信仰の兄弟たちを励まし力づけながら、自分も十字架の上で死んでいったと伝えられています。私達も、神様から愛されている事を忘れてはなりません。神様から沢山愛されていると自覚している人ほど、深く人を愛することが出来るのではないでしょうか。
31節をもう一度お読みいたしますが、このように書かれています。・「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。』」 とあります。ユダが出て行った時こそ、イエス様が栄光を受ける時の始まりでした。出て行ったユダが祭司長たちにイエス様の居場所を知らせたことによって、イエス様は捕らえられ、十字架に架けられて死に、それによって全人類の罪が贖われるからです。それこそがイエス様がこの世に遣わされて来た目的であって、その目的が達成されるこの時こそ、イエス様が栄光を受ける時でした。それは又、イエス様を通して人類の罪の贖いを達成された神様の栄光が現れる時でもありました。なお贖うという言葉の元々の意味は、借金のかたに取られた奴隷を、お金を支払って買い戻すという意味です。イエス様は、十字架の上で流された血潮を代価として、罪のために悪魔に捕らわれていた私達を買い戻して下さったのです。
私達も、「この私を通して神が栄光をお受けになった。」と言われてみたいものですけれども、そのためにはどうしたら良いでしょうか。そのためには、私達が日々の生活において、聖書の御言葉に従って歩むのが良いのではないでしょうか。御言葉の中で最も大切な戒めは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』という申命記6:5の戒めであるとイエス様はおっしゃいました。(マタイ22:37) そしてこれと同じように大切な戒めが、レビ記19:18の、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という戒めであるともおっしゃいました。神様にとっては、自分が創った人間から愛されることほど嬉しいことはないでしょうし、また自分が創った人間どうしが互いに愛し合っているのをご覧になるのもまた、それと同じように嬉しいのではないでしょうか。そのような時にこそ、神様がこの世に人間を創った目的が達成され、そこに神の栄光が現れます。
ユダが出て行った時、イエス様はおっしゃいました。33節ですけれども、・「子どもたちよ。わたしはもう少しの間、あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」とおっしゃいました。イエス様はこれから、弟子たちが一緒について行くことの出来ない所に行かれるというのですが、これは勿論、イエス様の十字架の死を指しています。イエス様は今、全人類の罪を贖い、彼らに永遠の命を与え、天国において私達が住まうべき場所を備えるために、十字架に架かかって死のうとしていますが、そのような使命を与えられているわけではない弟子たちは、今はイエス様について行くわけにはいきません。しかし弟子たちも私達も、この世の命を終えた後には、イエス様が備えて下さった天国の家へ行くのです。ですからイエス様は36節で、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」とおっしゃいました。イエス様は弟子たちよりも一歩先に天国に帰られて、弟子たちや私達のために、住むべき場所を備えて下さるのです。ヨハネ14:2に、・「わたしの父の家には、住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」とあるとおりです。私達よりも先にイエス様が天国へ帰り、私達の住むところを備えて下さいますから、私達は、この世においても、またこの世の命を終えた後にも、信仰を持ってイエス様の後について行きさえすれば良いのです。
34節に、・「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。」とあります。イエス様は、これから十字架に架かるにあたって、弟子たちに新しい戒めを与えようとされています。どのような戒めかと言うならば、その後にこのように書かれています。・「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と書かれています。イエス様は弟子たちに、新しい戒めとして、「互いに愛し合う」という戒めを与えられたのです。しかし例えば先ほど申しました旧約聖書のレビ記19章18節に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とありますように、互いに愛し合うという教えは古くからあって、別に新しい戒めでも何でもないような気がします。しかしイエス様は、「新しい戒めを与えます。」とおっしゃいました。どこが新しいのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とありますように、イエス様が私達を愛して下さったように、私達も互いに愛し合うという点です。即ち、イエス様が私達を愛して下さったように私達も愛し合うこと、それが新しい戒めです。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という旧約聖書の戒めも大切な戒めです。しかしいくら愛情深い人間であっても、自分自身を愛するのと同じようには、隣人を愛することは出来ないであろうと思います。まず自分の都合を優先して、余裕があれば隣人を愛する事ならば、出来るかもしれません。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めにせよ、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めにせよ、よほどの努力をしない限り、この戒めを守ることは難しいであろうと思います。
これに対してイエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という戒めを、新しい戒めとして与えて下さいました。イエス様は、一生懸命努力して弟子たちを愛したのではなく、また努力して私達を愛して下さっているわけではありません。自然な形で愛して下さっているのです。私達もそのように、自然に愛し合いなさいとイエス様は言っておられます。努力しなくても自然に人を愛するためには、どうしたら良いでしょうか。それは、私達がイエス様から大きな愛を受けているという事を自覚している事です。イエス様から愛されている事を深く自覚しているならば、自然に人を愛することが出来ます。
「あなたがたは世の光です。」(マタイ5:14)とイエス様はおっしゃいました。確かにクリスチャンは、世の光として、世間の人とは違ったところがあるであろうと思います。しかしこの光りは、自分自身が燃えることによって放つ光ではなく、イエス様からの光を受けて、それを照り返している光です。自分が燃えているのであれば、やがて燃え尽きてしまいます。燃え尽きないためには、イエス様から十分に光を受けて、それを照り返せばよいのです。私達キリスト者が世の光であるとおっしゃったイエス様は、自分自身が世の光であるともおっしゃいました。即ち、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)とおっしゃっています。イエス様から放たれる光は神様から出る光ですから、永遠に続きますけれども、人間が燃えて出す光は直ぐに尽きてしまいます。ですから私達が放つ光は、自分が燃えて放つ光ではなく、イエス様から出る光を受けて、それを照り返す光でなければなりません。イエス様の光を十分に照り返すためには、イエス様から大きな愛を受けているという事を、私達が自覚していなければなりません。イエス様から大きな愛を受けていると深く自覚している人ほど、沢山人を愛することが出来るであろうと思います。それが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というイエス様の新しい戒めの意味です。
「自分自身を愛するように隣人を愛する」努力をすることを旧い愛とするならば、イエス様から大きな愛を受けて、それを照り返す愛は新しい愛と言えます。旧い愛は必要ないというのではありません。それはそれとして、とても大切な愛です。しかしそれ以上に大切なのは、イエス様から大きな愛を受けていることを私達が自覚して、その愛を隣人に照り返すことです。私達は、それほど大きな愛をイエス様から受けているという事を自覚いたしましょう。

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