イエスを愛する人はイエスの戒めを守る人
2024.1.21 鳥居光芳
新年も第4週目に入りましたが、皆様良いお正月をお過ごしになったことと思います。三が日をゆっくりと過ごしているうちに、新しい一日が次々にやって来ては、次々に去って行って、気がつけば今日は21日になってしまったような気がしますが、皆様はいかがでしょうか。今年は新年早々に能登半島地方で大きな地震が発生し、多くの方々がお亡くなりになったり、家を失ったりした人が多く出て、揺れの強かった地方に住んでいる方々には正月どころではありませんでしたが、心から哀悼の意を表させていただきます。教団の共生委員会からも、各教会に対して義援献金の依頼が来ていますが、幸いにも災害に遭うことのなかった私達としては、出来るだけのことをさせていただきたいと思います。
このような災害が起きる度に思うのですけれども、この世には何故、私たち人間を苦しめる災害が度々起きるのでしょうか。これも神様の御計画の中にある事なのでしょうか。疑問に感じてしまいます。聖書には、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」とありますが、この世の出来事は全て神様の御支配の中にあって、偶然に起きるような事は何一つないと、この御言葉は教えています。私達が住んでいるこの地球の歴史を振り返ってみますと、まだ人類の気配もなかった大昔から、氷河期を何度も繰り返してきたようです。その時には、地球上にはまだ人類は居なかったでしょうから、「この世に神がいるならば、何故このような事が起きるのだろうか?」などと愚痴をこぼす人間もいませんでした。この様な大異変が起きる度に、その時代に生きていた動物や植物のほとんどは滅ぼされてしまったでしょうけれども、その中で運よく生き残った物の中からやがて人類が生まれてきたのではないでしょうか。神学生の時代、日曜日ごとに派遣されていた教会でこのような話をしましたら、「人間は神様が大地の塵からお創りになったのであって、そのような進化論的な考え方は間違っている。」と信じ切っている方がいいらっしゃって、その人を深く傷付けてしまった事があります。私は勿論聖書を信じていますけれども、進化論が間違っているとは思っていません。しかし人間を初めとする全ての生物は、全く偶然の積み重ねで進化してきたのではなく、神様の御計画の中で、御心に沿う形で進化してきたのではないかと思っています。聖書の創世記の第1章と第2章に書かれている天地創造の話しは、そのような事を象徴的に表現しているのではないかと思っています。ですから、天地万物は神様によって創られたという創造論も、進化を繰り返してきた結果現在があるとする進化論も、見る角度が違うだけで、どちらも正しいのではないかと思っています。
創世記の中に、「ノアの箱船」の話があります。神の前に正しく歩んでいたノアだけが大洪水から守られて、生き延びたという話しですけれども、この当時、地球上のあちこちに洪水伝説が伝わっていて、それを基にして「ノアの箱舟」の話しが作られたのではないかと言われています。「ノアの箱舟」では、神の前に正しく生きていたノアだけが助かるのですけれども、実際の洪水では, 神の前に正しく生きていた人も、そうでない人も、同じように水に飲まれて死んでいったのではないでしょうか。マタイ福音書に、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5:45)とありますが、神様は、良い人にも悪い人にも平等に自然の恵みを与えて下さいますけども、自然災害のような悪い事も、平等に与えられるのではないでしょうか。
神様がこの世に人間をお創りになった時、夫々に与えられた賜物は、人によって違いがありますけれども、神様から与えられた恵みは、全ての人に対して平等ではないかと思っています。しかしこの世では、運のいい人もいれば、悪い人もいるようで、全ての人が平等に恵みを受けているようには見えない時があります。今回の地震のように、被害を受けた人と受けなかった人とでは、そこでもう平等ではないように思いますが、しかしそのように思うのは、私達がこの世だけしか見ていないからではないでしょうか。ルカ6:20~24に、このように書かれています。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、満ち足りるようになるからです。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、笑うようになりますから。・・・・・その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。」と書かれています。この世で貧しい生活を強いられている人は、その分、天国では大きな慰めを受けることが出来るというのです。その逆に、この世で富んでいる人は、自分の受ける分を既に受け取ってしまったのだから、天国で受ける分は、それほど残っていない、というのです。この様に神様は、この世と天国の両方を通して人間を見ておられ、両方を通して見た時に平等になるように、人間を創られたのではないでしょうか。しかし、いくら天国に、自分の受ける恵みが沢山用意されているとは言っても、天国へ行かなければ、それを受け取ることは出来ません。天国で恵みを受け取る筈であった人が来なかった場合には、その恵みは、他の人に与えられてしまうのでしょうか。
タラントの話をご存知の方が多いであろうと思います。ある人が旅に出掛けることになりました。旅に出るにあたって、ある僕には五タラントを預け、ある僕には二タラントを預け、ある僕には一タラントを預けました。五タラントと二タラントを預かった僕は、預かったお金を元手にして働いたので、主人が帰って来た時には、預かった金額を倍にして返すことが出来ました。主人が帰って来た時というのは、イエス・キリストの再臨の時の事です。預けたお金を返しもらった主人は喜んで、返されたお金を夫々の僕に与えて、その管理を委ねたということです。これは、再臨の後に行われる審判の様子を分かり易く述べたもので、僕のために天に取っておかれた恵みが、審判の時に与えられるという事でしょう。これに対して一タラントを与った僕は、失くしてはいけないと思って地面に穴を掘り、預かったⅠタラントをそこに隠しておきました。そして主人が帰って来た時、それを取り出して返しました。主人は、預けたⅠタラントをそのまま返してもらったのですから損はないのですけれども、大変怒って、その僕からⅠタラントを取り上げ、10タラントを手にした僕に与えてしまいました。1タラントを預かった僕は、5タラント与った僕と比較して、自分の預かり分が少ないので、初めからやる気が出なかったのかもしれませんけれども、しかし1タラントというのは、当時の労働者の6千日分の賃金だそうですから、相当な金額です。私達はどう思っているでしょうか。1タラントを預かった僕のように、自分には僅かな賜物しか預けられていないと思っているでしょうか。1タラントと言っても、莫大な賜物であることに気が付いているでしょうか。神様は、1タラントの元手で5タラントを儲けることを期待していたわけではありません。1タラントの賜物を有効に使って、それなりの利益を上げれば喜んで下さるのです。私達は、自分は神様から大した賜物を預かっているわけではない、と思っていたら、それは大きな間違いです。私達に与えられている賜物は人によって違いますけれども、神様は全ての人に平等に与えて下さっているのです。ローマ人への手紙12章に、このように書かれています。即ち、「12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」と書かれています。一人一人、与えられている賜物の種類は違いますけれども、自分に与えられている賜物を十分に用いるならば、神様は喜んで下さり、その人が天に来た時には、その人のために用意されている天の恵みを惜しみなく与えて下さいます。この世だけを見ていると、5タラント預かった人もいれば、1タラントしか預からない人もいて不公平に見えるかもしれませんけれども、天国に用意されている恵みまで含めれば、皆平等なのです。
イエス様がこのような譬え話をされたことがあります。パリサイ人と取税人が、宮で祈りを捧げていました。パリサイ人は、このように祈りました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:11、12)と祈りました。これに対して取税人は遠く離れた所に立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩きながら言いました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:13)と言いました。これを聞いていたイエス様は、弟子達に言いました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」と言いました。パリサイ人は、この世では恵まれた地位と富を手にしていましたけれども、天で与えられるものは何もありませんでした。これに対して取税人は、この世では僅かな物しか与えられていませんでしたけれども、天には多くの物が用意されていたのです。
弟子たちにこのような話をされたイエス様は、間もなくご自分が十字架にかけられて死ぬことをご存知でした。しかし、死んで終わりではなく、その後に甦るということもご存知でした。ヨハネ14:18に、このように書かれています。・「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」と書かれています。この言葉のとおりにイエス様は、悪魔の最大の武器である死に打ち勝って、3日目に甦られました。それによって、イエスキリストを信じている私達にも甦る道が開かれたのです。ヨハネ14:19に、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」とあります。死から甦ったイエス様は霊的な存在になっていますから、世の人々には見えません。しかし、弟子たちには見えるのです。「そう言われても、自分には、イエス様がどのような顔しているのか見えない。」と心配する必要はありません。イエス様は今は天に戻っておられ、代わりに聖霊が遣わされているのです。誰にも、イエス様がどのような顔をしているのかわかりません。顔はわかりませんけれども、イエス様が十字架に架かって命を投げ出して下さったほど私達を愛して下さっているという事を信じているならば、その人は、イエス様を見ているのです。というのは、そのように信じているという事は、聖霊がその人の心に宿っており、語りかけて下さっている証拠だからです。霊的な存在として3日目に甦り、今では天に戻っておられるイエス様には、聖霊を通してでなければお会いすることは出来ません。「イエスは主である」と告白する人だけが、イエス様にお会いすることが出来ます。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」(Ⅰコリント12:3)とありますが、「イエスは主である」と告白出来る人の心には聖霊が宿っていますから、聖霊を通してイエス様にお会いすることが出来ます。
「永遠の命を手に入れるためには、何をしたらよいでしょうか。」と、ある金持の青年がイエス様に尋ねました。これに対してイエス様は、「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と答えられました。すると青年は、「どの戒めですか?」と再び尋ねました。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19:19 父と母を敬え。」とイエス様は答えられました。これらは全て、十戒に定められている戒めですが、イエス様は、この青年が、これらの戒めを全て守っていることを承知の上で言われたのです。案の定この青年は、「そのようなことはみな、守っております。」と答えました。この青年は、十戒の戒めを全て守っているのに、永遠の命を手にしているという確信を持てなかったのです。そこでイエス様は青年に言いました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」と言いました。それを聞いた青年は、悲しそうな顔をして立ち去って行った、ということです。
旧約聖書には、沢山の教えと戒めが書かれていますけれども、全ては二つの戒めに要約されると、イエス様はおっしゃいました。第1の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という戒めであり、第2の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めです。先ほどの青年は、一つ一つの細かい戒めは守っていましたけれども、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という、全ての戒めの土台となる戒めの基本精神を知らなかったのです。戒めの一つ一つをいくら守っていても、全ての戒めに共通している基本精神を知らなかったら、何にもなりません。先ほどのパリサイ人の祈りのように、「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と言ったところで、「この取税人のようではないことを、感謝します。」と心の中で思っているようでは、戒めを守っている事にはなりません。イエス様はこのような人を、律法主義者として、最も嫌われました。
最後に、ヨハネ14:21を読んで終わりたいと思いますが、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現わします。」とあります。イエス様を愛している人は、イエス様を通して与えられた戒めを守り、それに従います。しかしその戒めとは、一つ一つの細かい戒めではなく、全ての戒めを通して流れている二つの大きな戒めのことです。第1の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という戒めであり、第2の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めです。この二つの大きな戒めを守っている人は、一つ一つの細かい戒めをも守っていることでしょうけれども、そのような人は、イエス様から律法主義者と言って非難されるようなことはありません。新しい1年間、二つの大きな戒めを守るクリスチャンでありたいと願っています。