マルコの福音書 7章14節~23節

22024年9月1日 勝本正實

 主 題   心で生まれる三悪について
招きの言葉 詩篇128篇1~6節  今週の聖句 詩篇 119章 15節

命 題    私たちの人生には常に内面的な課題が付きまといます。その課題は私たちの未熟さや自己中心的な罪にも原因があります。聖書で語られるこの課題と似たことが仏教でも語られています。その一つが三悪と呼ばれることで、貪欲(貪り)、怒り、愚痴(不平不満)です。仏教ではこれらは煩悩、無明から発すると言われます。これに対し主イエスがこの事をどう語り、解決されるかを聖書から学びます。

序 言 人生は未熟で始まり未完成で終わる

 私たちは生まれた時、未熟児として生まれます。すぐには歩けず、話す事も出来ず、固いものが食べられません。周りの人の助けを得て、20年ほどの年月を要します。心も同様で、一人の人間として未熟で始まりますが、厄介なのはその後も未完成のままだと言う事です。やっと分別をわきまえた頃には、人生の終末が待っています。主イエスが語られた、私たちの内面の課題は今も変わることなく、未解決です。今日はマルコの福音書に記された内面の課題を取り上げ、仏教でも言う三悪、貪欲・怒り・愚痴について学びます。主イエスはこれらをどう解決しようとされたかを学びます。

本論1 生きていく中で、問題が起こる

 主イエスはなにげない普段の生活の中で、そこに潜む心の中を見られる方です。その当時の人々が当たり前として守っていた、言い伝えや生活習慣や宗教のしきたりに、隠れた偽善を指摘されました。その事が語られたのが、マルコ7章に記された「心から出てくるもの」についての教えです。これは、私たちの普段の生活の中で、起こってくる問題のすり替えです。つまり本当は心の中の問題なのに、表面的な儀式を通してすり替えてしまうという事です。

このことを現実の生活で説明します。私たちの生活は、身の回りのことで見れば、生活環境は清潔になり、衛生的になっています。上下水道が完備し、家も道路もきれいになっていきます。服も体も清潔になっていきます。小さかった頃と比較すれば、随分ときれいな街になっていると言えるでしょう。しかし一方で、私たちの内面は変わっていません。人間性は変わらず、以前のままの状態です。なぜ内面は変わらないのか、それは見えないからともいえますが、知識と違って人間性・人格としての成長は簡単ではないからです。

本論 2 宗教に偽善はつきもの

私たちは生活していくうえで、周りの人との間で自己主張や争いや競争の中で生きており、そこには正直に生きるとか、正しく生きるとか、優しく生きるとかが難しい状況にあります。このため、21節から23節に記されている人格的な問題、課題が湧き起こってきます。これらをコントロールするのがとても厄介です。このため、とりあえず隠す、ごまかすことになります。つまり心の押し入れに放り込み、心の奥底にしまいこんでいくうちに、手がつけられなくなります。臭いも発して化け物のようになってしまい、もはや制御が出来ません。このため、隠してごまかすことになります。ここに偽善が生まれます。主イエスはこの事を指摘されたのです。信仰は理想を目指すものですし、有るべき人としての姿を求めるものです。ですからかえって、偽善的になるのです。世の中は、宗教よりも自由であり、理想がありません。ですから欲望も損得も分かりやすいのです。しかし宗教は理想があるため現実において屈折します。ここに偽善が入り込みやすいのです。

本論 3 外側は整えるが、内側は手を抜く

私たちは見える部分と見えない部分、外見と内面、肉体と霊性をもつ存在です。このため、見える部分は整えても、内面は放置したり後回しになります。玄関はきれいでも勝手口は汚れています。部屋は片付いても物入れは雑然としています。こうしたことが人間性にも表れます。宗教的な儀式は大切にしても、心の欲望は放置されてしまう、こうした事が主イエスの怒りを引き起こしました。主イエスは私たちを「白く塗られた墓」と表現されました。イザヤ書では「人間の正義は汚れた下着」と記されています。これらは見かけ倒し・うわべだけという意味です。このように人々の関心がうわべに向いている事を、主は嫌われたのです。なぜそうなるかと言えば、私たちが周囲の人の目を意識しているからです。だから見抜いておられる神様に気が向かないのです。見えない方に心を向けることこそ、信仰の役割と言えるでしょう。

本論 4 三悪は人生の老廃物である

貪欲・怒り・愚痴・これらは一日といえども、私たちの生活と無縁ではありません。生きていくうえで、避けて通れない事です。これらは生活の中の老廃物・排泄物のようなものです。貪欲さが生きる励みとなり、怒りがストレスの発散となり、愚痴が精神の安定剤みたいなものです。これらを抑え込むといずれ大爆発を起こします。これらは究極においては自己中心から生まれる、デキモノみたいなものです。仏教ではこれらは煩悩や無明という悟りのないことの結果であると教えられ、これらを捨て去ることが修業とされています。キリスト教ではこれらは自己中心から生まれる罪の果実として語られます。自分で制御することは難しく、聖霊による悔い改めが求められます。神さまが私たちの心の中を変えて下さらない限り、とうてい無理な事です。これらの事に向き合って、改めることを主に従うことで学びます。

まとめ 無くすことは出来ないが、減らすことは出来る

では諦めるのかと言えばそうはいきません。なぜならこれらは、人間関係を破壊し人生を崩壊させるからです。三悪のあるところもめ事が絶えません。このため減らす事、慎む事が信仰の働かせどころです。三悪の減った所に信頼が生まれます。つまり生きていきやすくなるのです。心を清める・整えることにもっと気をつける事が第一歩です。暗闇に光を当てて、神のもとに引き出すことで、私たちの内面が少しづつ清められます。そこから始めましょう。

祈りましょう。

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