2024.10.20 鳥居光芳
私達は礼拝の中で、いつも使徒信条を告白していますけれども、その中で、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信ず。」と告白しています。ここに、「聖なる公同の教会」という言葉が出てきますが、「その教会は、世界の何処にあるのか。」と問われても、答えは出てきません。この公同の教会は、世界のどこかに実際に存在している教会ではありません。この教会は霊的な存在であって、目で見ることはできませんけれども、世界でただ一つ存在しているのです。実際に存在している世界中のキリスト教の教会は、全てキリストを頭とし、私たち教会員を手足としていますけれども、公同の教会も、世界中の教会の上に立ってはいますけれども、キリストを頭とし、世界中の教会を手足としています。ですから私達は、たとえ教団が違っても、公同の教会の働きのために協力し合っているのです。
このように公同の教会は、目に見えない霊的な存在ですけれども、世の中には、目には見えないけれども大切な働きをしている物が沢山あります。例えば電波は目に見えませんけれども、世界中どこにでも絶え間なく飛び交っています。この電波が空中を飛び交っているお陰で、私達はTVを見ることが出来ますし、スマホを使うことも出来ます。今や、目に見える物よりも見えない物の方が大切な時代になっているかもしれません。
神様も霊的な存在であって、目には見えませんけれども、旧・新約聖書を通して、あるいはイエス様の話を通して、神様がどのような方であるのか、私たちはよく知っています。旧約聖書を通して知っている神様は、罪を犯した人間を罰することによって私達を正しい方向に導いてくださる厳しい神様であるかもしれませんけれども、新約の時代になって、神の御子であるイエス様がこの世に来られ、父なる神様について事細かに教えて下さいましたから、私達は、旧約時代の人達よりも神様の事を正しく知っています。新約の時代になって教えられた神様は、私たち人間を罪から救い、永遠の命を与えて下さるために、独り子であるイエス様を十字架にまでも架けて下さった愛なる神様です。
私達に神様の本当の姿を教えて下さったイエス様は、十字架に架けられて死んでしまいましたけれども、3日目に甦ることによって、後に続く私達人間も、死んでも生きることを教えて下さいました。甦ったイエス様は、それまでとは次元の違う新しい体をまとっておられました。それは前回私の担当の時に申しましたように、甦ったイエス様は、マグダラのマリアの目には見えましたけれども、ペテロとヨハネには見えなかったという不思議な体で甦られました。何故マグダラのマリアには見えて、ペテロとヨハネには見えなかったのかという事を考えても、正しい答えは出てこないだろうと思いますけれども、イエス様としては、ぺテロとヨハネが空っぽになっている墓を見た時に、ご自分が死から甦ったということを悟って欲しかったのではないでしょうか。しかしペテロもヨハネもその事には気が付かず、不思議なこともあればあるものだと思っただけで、そのまま家に帰ってしまいました。この二人には、目に見えないものを信じる力が、未だ身についていなかったのです。
今日開いているヨハネ20:19~31の中でも、イエス様は不思議な体を持って弟子たちの前に現れなさいました。この弟子たちは、イエス様が十字架に架けられた時、散り散りになって逃げてしまった人たちですけれども、いつパリサイ人達に見つかって捕らえられるか、心配でたまらなかったようです。独りで逃げ隠れしているよりも、仲間と一緒にいる方が少しは心強いと思ったのでしょう。彼らは集まって一つ部屋に籠り、誰も入ってくることの出来ないように、ドアには頑丈な鍵をかけていました。しかし、それ程厳重に囲われていた部屋ですけれども、ヨハネ20:19節によれば、甦ったイエス様は、壁を通り抜けて、苦もなく部屋の中に入って来ることができました。
甦ったイエス様が弟子たちの前に姿を現した場所については、二つの伝承があると言われています。その場所の一つはガリラヤであり、もう一つはエルサレムです。マタイとマルコ福音書はガリラヤ説をとっており、ルカとヨハネ福音書はエルサレム説をとっているようです。マタイ28:10には、このように書かれています。「すると、イエスは(マグダラのマリアに)言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」と書かれています。このイエス様の言葉に従って弟子たちはガリラヤに行き、そこで甦ったイエス様に出会っています。その時の様子が、マタイ28:16~17にこのように書かれています。「十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」と書かれています。「ある者は疑った。」とありますが、何を疑ったかと言うならば、「自分達がお会いしている相手は、本当にイエス様なのかどうか。」ということでしょう。このように疑ったのは、後でもう一度触れますけれども、12弟子の一人であるトマスであったろうと、ヨハネ福音書から推測することが出来ます。
またマルコ福音書には、甦ったイエス様が弟子たちと再会した場所について、このように書かれています。マルコ16:7ですが、墓にいた天使が、様子を見に来た女たちに、このように言っています。「お弟子たちとペテロに言いなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」と書かれています。しかしマルコ福音書には、弟子たちが実際にガリラヤまで行ったかどうかについては書かれていません。彼らは、甦ったイエス様に出会ったという報告を女たちから聞いても信じなかったようですから、ガリラヤには行かなかったのかもしれません。この時弟子たちはエルサレムに居ましたけれども、エルサレムからガリラヤまで行くには数日間かかります。ガリラヤまで行く途中に、必ずパリサイ派の人達に見つかって捕らえられてしまうだろうと、弟子たちは思ったのではないでしょうか。そのために、いくらイエス様から、「ガリラヤで会おう。」と言われても、そこまで行く勇気は弟子たちには無かったものと思います。イエス様が、「ガリラヤで会おう。」と言われたのですから、「ガリラヤへ着くまではイエス様が守って下さる。」と信じるべきであったのに、この時の弟子たちには、それだけの信仰は無かったのです。
このように、甦ったイエス様が弟子たちと初めて再会した場所、あるいは再会しようとした場所については、マタイ福音書とマルコ福音書はガリラヤ説をとっていますが、ルカ福音書とヨハネ福音書はエルサレム説をとっています。ルカ福音書もヨハネ福音書も、本当はガリラヤ説をとりたかったのかもしれませんけれども、弟子たちが臆病で、ガリラヤまで行く勇気がなかったために、やむを得ずエルサレム節になったのかもしれません。
ルカ福音書の方は、レンブラントの「エマオの途上」の絵でも有名ですが、主人のイエス様を亡くした二人の弟子が、これからの生活を建て直すために、故郷のエマオへ帰ろうとしていました。二人は道々話しをしながら、イエス様を失った悲しみを分かち合っていましたが、そこへ見知らぬ人が声をかけてきました。初めはそれが誰であるのかわかりませんでしたけれども、夕食を共にしている時に、その人は甦ったイエス様であるとわかりましたので、すぐにエルサレムにとって返し、仲間たちに伝えたという事がルカ24:33に書かれています。
また今日開いているヨハネ福音書では、甦ったイエス様が弟子たちの前に姿を現した様子が、20:19にこのように書かれています。即ち、・「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」」と書かれています。イエス様が十字架に架けられて死んだことを知っている弟子たちは、自分達も同じように捕らえられて十字架に架けられるのではないかと恐れおののきながら、パリサイ人達から隠れて、部屋の一室に集まっていました。部屋の中の声が漏れないように、あるいはちょっとやそっとの事では壊されないように、分厚い壁で仕切られている頑丈な部屋であったことでしょう。出入り口には頑丈な鍵がかけられていました。しかしこの時パリサイ人たちは、本当に弟子たちを捕えようとしていたのでしょうか。私には、パリサイ人たちは弟子たちに対して、それほど強い関心を持っていなかったのではないかという気がします。もし彼らが弟子たちを捕えるつもりであったならば、ゲッセマネの園でイエス様を捕えた時に、弟子たちも一緒に捕らえていたでしょうし、捕らえられたイエス様の様子を見るために大祭司の庭に入り込んだペテロも、あれほど簡単に入り込むことは出来なかったのではないでしょうか。この様なことから、パリサイ人たちはイエス様が死んでからしばらくの間は、弟子たちの事など気にしていなかったような気がします。しかしペンテコステの時に聖霊が下ってからは、弟子たちは俄然伝道の志に目覚めて立ち上がりますから、その時から、弟子を初めとするキリスト者達は、ユダヤ教の人達から猛烈な迫害を受けるようになっていったのであろうと思います。
パリサイ人達を恐れてイエス様の弟子たちが隠れていた部屋に、イエス様が入って来ました。部屋には頑丈な鍵が掛けられていましたけれども、イエス様は分厚い壁を苦も無く通り抜けて入って来られ、部屋の中央に立たれました。そして、手と脇腹の傷跡を見せて、ご自分が十字架に架かって死んでイエス様である事を示されました。そして「聖霊を受けなさい。平安があなた方にあるように。」とおっしゃって、彼らに息を吹きかけられました。イエス様を失って臆病の霊に取りつかれていた弟子たちがこの時必要としていたのは、聖霊による守りでした。聖霊による守りが無くなった時、私たち人間は、簡単に悪霊の餌食になってしまいます。この世には、聖霊と悪霊の戦いがあります。イエス様がバプテスマを受けた後、荒野で断食をしていた時にも、悪霊がやって来てイエス様を誘惑しました。「お前が神の子ならば、この石をパンにして食べることができるだろう。」「私にひれ伏して拝むならば、この世の全ての栄華をお前に呉れてやろう。」と言って、悪霊はイエス様を誘惑しました。イエス様は神の子であって、聖霊に守られていましたから、このような悪霊の誘惑には負けませんでしたけれども、私たちはどうでしょうか。どんな人間でも、人間の力だけでは悪霊に勝つことは出来ません。聖霊の助けが必要です。それをよくご存知であるイエス様は、パリサイ人達を恐れて隠れている弟子たちに対して、「聖霊を受けなさい。」と言われたのです。聖霊を受けた弟子たちは、それ以後、ユダヤ人達を恐れることがなくなって、隠れ潜んでいた部屋から出ていき、イエス・キリストが死から甦ったことを力強く伝えて行く者に変えられました。この時聖霊を受けたのは、部屋の中に隠れていた弟子達だけですけれども、この後ペンテコステの時には世界中に聖霊が下り、イエス・キリストを信じている人は誰でも聖霊を受けることが出来るようになりました。私達の心の中にも聖霊が住んでおられますけれども、聖霊だけでなく、悪霊も住んでいるのではないでしょうか。ですからイエス・キリストを信じていても、悪霊の働きによって、罪を犯してしまうことがあります。私達は心の中から悪霊を追い出してしまいたいのですけれども、人間よりも強い悪霊を、人間の力で追い出すことは出来ません。聖霊の力によって追い出していただく以外にありません。ガラテヤ2:20に、このような御言葉があります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」という御言葉です。この様に語ることのできたパウロの心からは、聖霊の力によって悪霊は追い出され、聖霊だけが心の中に住んでいたのでしょう。なかなかこのような状態にはなれませんけれども、そのような状態を目指して生きていきたいものです。
部屋の中にいた弟子たちは、甦ったイエス様に、今申しあげたようにしてお会いしましたけれども、12弟子の一人であるトマスは、この時その場にいませんでした。他の弟子たちが、「イエス様にお会いした。」といくら言っても、・「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と彼は言い張りました。死んだ人間が生き返る筈がない、と彼は思っていたのです。そういう彼は、イエス様がまだ生きている時に、「もう一度ユダヤに行こう。」と言われたのを聞いて、イエス様は十字架に架かって死のうとしていることを察知し、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と言った人です。このように彼は勘が鋭く働く人でしたけれども、自分が納得しない限り、他人の言う事を簡単には聞くことの出来ない人であったようです。
イエス様が弟子たちの集まっている部屋に現れてから1週間後、再び現れなさいました。その時はトマスも、他の弟子たちと一緒にいました。再び現れたイエス様は、トマスに言いました。20:27ですが、・「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とイエス様はおっしゃいました。これに対してトマスは、実際にイエス様の手に指を当てたり、脇腹に手を入れたりしたかどうか、聖書には書いてありませんけれども、「私の主、私の神よ。」と彼は思わず叫んでしまいました。おそらく彼は、イエス様の声を聞いただけで信じたのであろうと思います。
この後29節ですが、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」とイエス様は言っています。神様は霊的な存在で目には見えませんから、「見たら信じよう。」と思っている限り信じることは出来ません。ですから、見ないで信じることが必要なのです。見ないで信じるという事は、聞いて信じるということです。「信仰は聞くことから始まる。」(ローマ10:07)という言葉が聖書にありますが、礼拝に出席して、あるいはZOOOMを通して御言葉を聞くことは、非常に大切なことです。また、聖書を通して御言葉を聞くことも、同じように大切です。
イエス様は、まだこの世においでになった時から、ご自分は死ななければならないことと、死んでも甦ることを弟子たちに話してきました。弟子たちはそれを信じるべきでしたけれども、実際にイエス様が死んだ時、死んでも甦ると言われたイエス様の言葉を、誰も思い出すことが出来ませんでした。特にペテロとヨハネは、空っぽになったイエス様の墓を見た時に思い出しても良かったのですけれども、思い出すことは無く、従ってイエス様が甦った事を信じることは出来ませんでした。他の弟子たちも、甦ったイエス様を見た女たちから話を聞いても、またペテロとヨハネから墓の様子を聞いても、誰もイエス様が甦ったことを信じることが出来ませんでした。常識では有りえない事が起きたのですから仕方のない事ですけれども、私達には聖書が与えられており、そこに全ての真実が書かれているのですから、聖書を読み、聖書の話を聞くことによって、見ないでも信じる者になりましょう。
最後の31節に、このような事が書かれています。・「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」と書かれています。これがヨハネ福音書の結論です。ヨハネ福音書が書かれた目的は、これを読んだ私達が、イエスは神の子キリストであると信じること、信じて永遠の命を得る事です。私は永遠の命を頂いたと、確信を持って言えるようになりましょう。
ヨハネ福音書は、20:31で本来は終わっているのですけれども、これで終わってしまいますと、「ガリラヤでお会いしましょう。」というイエス様の言葉を弟子たちが無視してしまったことになって、弟子たちの名誉にかかわりますから、後世になって21章が付け加えられ、弟子たちはその後ガリラヤにも行った、という事が書き加えられました。しかしそれは単なる付け足しなどではなく、それが初めの一歩となって、キリスト教は世界宣教へと踏み出していくことになります。