わたしはまことのぶどうの木
2024.2.4 鳥居光芳
早いもので、今年もひと月が過ぎ、今日は2月に入っていますが、あっという間に1年の12分の1が過ぎ去ってしまった感じです。ひと月というと、子供の頃の夏休みの長さとほぼ同じくらいですけれども、子どもの頃の夏休みはずいぶん長く感じて、毎日を十分に堪能していたような気がします。子供の頃、皆で賑やかに遊んでいた時、近くの工場の工員さんたちが通りかかりました。その中の若い工員さんが、遊んでいる私達を見て羨ましそうに言った言葉を今も覚えています。「お前たちは、仕事もしないで一日中遊んでいられて、いいなー。」という言葉でした。一瞬勉強もしないで遊んでばかりいる事を叱られたのかと思いましたけれども、一緒に歩いていた少し年配の工員さんが、「子供は遊ぶのが仕事なんだよ。」と言ってくれました。叱られるのかと思って少し緊張していたところを、この一言に助けられてホッとした思い出がありますが、通りすがりのこのおじさん達の顔は全く覚えていません。今では、この時のおじさんたちの齢よりも、私の方が遥かに年上になってしまいましたけれども、昭和の時代を支えていた大人には、「子供にとっては、遊ぶことが仕事。」と言える程の心の余裕があったのかもしれません。
確かに子供にとっては、遊ぶことが仕事ですけれども、最近の私は、「散歩するのも仕事」という状態になってきました。しかしその仕事すら億劫になって満足に出来ていない状況ですが、散歩という仕事くらいは、いつまでも気軽に出来るようになっていたいと思います。
今日はヨハネ福音書の15章を開いていますけれども、この時、イエス様に残されている時間はあと僅かでした。間もなくご自分は、十字架に架かって死んでいかなければならない事をイエス様はご存知でしたから、残されている時間を大切に使わなければなりませんでしたけれども、その僅かな時間を、イエス様はご自分のために使うのではなく、ご自分がこの世から居なくなった後も弟子たちが信仰の歩みを続けていくためには、何が大切かということを教えるために、残された時間をお使いになりました。ですからヨハネ福音書の15章に書かれている教えは、弟子たちに対する教えですけれども、それは、今の私達にとっても大切な教えです。
イエス様は間もなく十字架に架けられようとしています。イエス様がこの世に生きている間、この世の人々はイエス様を受け入れようとはせず、迫害しましたけれども、その迫害は、イエス様が亡くなったらそれで終わりになるのではなく、その迫害が、今度は弟子たちに向けられていくであろうということを、イエス様は弟子たちに伝えられました。今開いているヨハネ福音書15:20の中ごろに、このように書かれています。・「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」と書かれています。世の人々がイエス様の教えを守っていたならば、弟子たちが教える事も守るであろうけれども、残念ながら人々はイエス様の教えを守らず、迫害しましたから、弟子たちも同じように迫害されるだろうというのです。何故世の人々はイエス様を迫害したのでしょうか。それは、イスラエルの人々が心から敬い崇めている神様を、イエス様が「自分の父」と言って憚らなかったことを、神に対する冒涜であると受け取られた事や、安息日に病人を癒したことが律法違反とみなされた事などがありますけれども、これは当時のイスラエルの支配階級であった祭司や律法学者たちが問題にしたことであって、一般の民衆は、このような事にはあまり関心が無かったかもしれません。それよりも民衆がイエス様に反感を抱くようになった一番の原因は、イエス様こそが、イスラエルの国をローマの支配から独立させてくれる人であると人々が期待していたにもかかわらず、それに向かってイエス様が一向に立ち上がろうとしなかったからではないでしょうか。イエス様に対する人々の期待が大きかっただけに、期待が外れた時の反動が大きく、迫害に繋がっていったのではないでしょうか。
このように、イスラエルの支配階級からも一般民衆からも迫害を受けるようになったイエス様は、ご自分が亡くなった後は、その迫害が弟子たちに向けられていくであろうと予測していました。そこでイエス様は、迫害の中にあっても信仰を守っていくためには何が大切かという事について、弟子たちに教えられたのです。それがヨハネ15章に書かれているブドウの木の譬えです。・「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」と1,2節にあります。ブドウはイチジクと並んで、イスラエルを代表する果物で、聖書の中では、イスラエル民族を例えるときによく用いられています。マタイ21:19に、このような事が書かれているのをご存知の方も多いのではないでしょうか。イエス様が弟子たちと一緒に歩いていた時のことですが、このような事がありました。「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」と書かれています。ここでいちじくの木というのは、その前後に書かれている事を見るとわかるのですが、イスラエルの祭司や律法学者を指しています。このイチジクの木は、葉をいっぱいに茂らせて、いかにも立派そうに見えたのですけれども、実は一つも付けていませんでした。これは、イスラエルの祭司や律法学者たちが、一般の民衆に対しては律法を教え、それを守るように指導していて、とても立派そうに見えるのですけれども、しかし自分達はその律法を一向に守っていないことを非難しているのです。
イチジクだけでなく、ぶどうも同じように、イスラエル民族を例える時に用いられます。イザヤ書5:1、2に、このような事が書かれています。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。5:2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」と書かれています。「わが愛する者のためにわたしは歌おう。」とありますが、ここで、「わたし」というのは預言者イザヤのことであり、「わが愛する者」というのは、イザヤが愛してやまない神様のことです。その神様は、よく肥えた山腹に例えているイスラエルの国の中に、ブドウ畑を持っていました。イスラエルは荒れ地が多い国ですが、神様はそこを丹念に掘り起こし、石を取り除いて畑を作り、そこに良いブドウを植えました。良いブドウというのは、イスラエル民族のことで、神様は、ご自分が丹念に耕した国に、イスラエルの人々を住まわせたのです。最初に住まわされたのはアブラハムでした。神様はアブラハムに言いました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」(創世記12:1,2)とおっしゃいました。そこでアブラハムは、生まれ育った故郷を離れてカナンの地に行き、そこに住み着きましたけれども、先ほどの、「神様がブドウ畑に良いブドウを植えた。」というのは、この事を指しています。そして神様は、盗賊や野の獣からブドウ畑を守るために、見張り用のやぐらを立てると共に、ブドウを絞るための酒船も造り、沢山のブドウが実るのを楽しみに待っていました。ところが実ったのは、期待に反して酸いぶどうばかりだったのです。この事は、神様がイスラエル民族をご自分の民として選んだにも拘らず、イスラエル民族が神様の期待していたようには育たなかったことを物語っています。そこで神様は、彼らが正しく育つことを願って、彼らに律法をお与えになりました。律法に適う生活をしておれば、正しく育つからです。イスラエルの民は、与えられた律法を大切にしましたけれども、大切にする仕方が間違っていることもありました。本来律法は、自分の思いや行いが、律法に照らして正しいかどうかを判断するために与えられたのですけれども、イスラエルの指導者たちは、一般民衆の行いが正しいかどうかを監視するためにこの律法を用い、律法を守っていない人を罪人として糾弾したのです。そのためにイスラエルの人々は、神様が期待したような愛に溢れた甘い実ではなく、いつも他人を監視するような酸っぱい実をつけるようになってしまいました。それは、彼等が、律法の一つ一つを守ることには熱心ではあっても、全ての律法を通して流れている律法の精神を守ろうとしなかったところに原因がありました。全ての律法を貫いて流れている精神とは、前回も申しましたけれども、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)という戒めです。全ての律法は、この二つに要約されるとイエス様はおっしゃっています。
ブドウの木は、接ぎ木をしないと良い木ができないそうです。甘い実のなるぶどうの苗を畑に直接植えても、根が害虫に齧られて枯れてしまうそうです。そこで害虫に強い木をまず先に植えて、それを台木にして、甘い実のなるぶどうを接ぎ木すると、害虫にやられることなく成長し、甘い実をつけるそうです。神様は、イスラエルの人々が自分達の力だけで甘い実を付けようとしても、それは無理であることを悟らせるために、甘いブドウの苗を直接畑に植えたのかもしれません。その結果苗は枯れてしまい、甘いブドウは実りませんでした。同じ失敗を何度も繰り返す中で、彼らは、甘い実を実らせるためには台木が必要であることに気がついたのではないでしょうか。彼らがその事に気が付くまで忍耐強く待っておられた神様は、彼らが気がついた時に、イエスキリストという台木をイスラエルの人々にお与えになったのではないでしょうか。台木を与えられた人々の中には、自分をイエスキリストという台木にしっかりと接ぎ木した人もいれば、祭司や律法学者たちのように、イエスキリストには見向きもしなかった人もいたことでしょう。しかし甘い実を結んだのは、イエスキリストに接ぎ木をした人だけでした。
ぶどうには接ぎ木が欠かせませんけれども、接ぎ木しただけで甘い実が沢山成るわけではありません。多くの枝の中には、実を付けない枝も沢山あります。そのような枝は、台木であるブドウの木からいたずらに栄養を吸い取るだけで、何の役にも立ちませんから、農夫である神様は、そのような枝を切り取ってしまいます。これまでイエス様に従ってきた弟子たちは、ブドウの木に繋がっている枝なのです。その弟子たちは、イエス様からこのたとえ話を聞いてどう思ったでしょうか。自分達は切り取られてしまう枝なのか、それとも残される枝なのか、心配になったのではないでしょうか。それに気がついたイエス様は、15:3にあるようにおっしゃいました。・「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言って、弟子たちは実を結ぶために残される枝であることを伝え、彼らを安心させなさいました。弟子たちは、これまでにイエス様から沢山の話を聞いていますから既に聖くされており、甘い実を結ぶのです。ですから切り取られる心配はありません。私達も同じです。私達もイエス様の話を聞いていますから既に聖くされており、甘い実を結ぶのです。しかし、聞くだけで良いのではありません。聞いて信じなければなりません。私達は、イエス様の話を聞いただけでなく、信じていますから、ブドウの木から切り取られることなく残され、甘い実を結ぶのです。甘い実というのは、御霊の実のことです。ブドウの枝が自分の力で実を結ぶのではなく、台木であるブドウの木から流れ込んでくる聖霊を受けて実を結ぶのです。その御霊の実というのは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制」であると、ガラテヤ5:22,23に書かれています。イエスさまの話を聞いて信じている人は、誰でも必ず御霊の実を結んでいます。但しその実の大きさは、その人の信仰の深さによって違いますから、私達は信仰を更に深くして、出来るだけ大きな実を結ぶように努めなければなりません。
このように、イエス・キリストという台木に繋がっていれば、誰でも必ず甘い実であるところの御霊の実を結ぶのですけれども、しかし、イエスキリストに繋がっておれば、良い事ばかりに恵まれて、辛い事や悪い事はやって来ないというのではありません。イエスキリストに繋がって信仰を持っていても、試練に見舞われることはあります。それは、残された良い枝が、もっと大きな実を沢山結ぶように、農夫である神様が刈込をなさるからです。刈込を受けるということは、枝にとっては試練ですけれども、刈込を受けた枝は、甘い実を沢山つけることが出来ます。ヘブル12:5,6に、このような御言葉があります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」とあります。最近はあまり聞かなくなりましたけれども、私の子供の頃は、何か悪い事をすると、「バチが当たるよ。」と言われました。しかし神様は、バチを当てるような方ではありません。罰が当たったように見えるときは、私達がもっと多くの御霊の実を結ぶようにと、神様が鍛錬して下さっているときです。その鍛錬や試練は、私達が耐えることの出来ないほど酷いものではありません。それはⅠコリント10:13に、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、逃れる道も備えてくださいます。」とあるとおりです。
15:8に、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」とありますが、これは、ここにある掛け軸に書かれているとおり、私達の教会を支えている聖句です。私達はイエス・キリストを信じている事によって、既にイエス様の弟子になっていますけれども、信仰に入門したばかりの弟子と変わるところがないかもしれません。台木であるところのイエス様に更にしっかりと繋がることによって、もっと甘い大きな御霊の実を沢山結ぶ弟子にならなければなりません。そうすれば、農夫である神様は、私達をキリストの弟子としたことを誇ることが出来、栄光をお受けになります。それが、このヨハネ15:8に書かれている意味です。
最後に話をまとめますけれども、私達は既にイエスキリストを信じている弟子です。しかし、いくら弟子であると言っても、自分一人の力で実を結ぶことは出来ません。イエスキリストという台木にしっかりと繋がって、そこから栄養を受け取らなければ、豊かに実をつけることは出来ません。豊かに実をつけるために、これからもイエス様にしっかりと繋がっていきましょう。