2024年5月5日 勝本正實
主 題 「死後の人生は、今の生き方で決まる」
招きの言葉 詩篇119篇145~152節 今週の聖句 伝道者の書12章14節
命 題 ラザロと金持ちと題されるたとえは、現実の社会の矛盾や不公平を背景として、来世でのどんでん返しが「なぜ」起こったのかを説明する。今の生き方が来世の生き方を決定すること、その基準は神の与えられた方法によることを教えている。私たちの今の生き方を問う例えである。
序 言 死と死後のことは宗教の専門分野
主イエスによる今日のたとえ話は、教会で「ラザロと金持ちのたとえ」と呼ばれている例えです。当時のイスラエルではほとんどの人が貧しく、一部の人だけが豊かな暮らしをしていました。貧しい人は、せめて来世では幸せに暮らせることを夢見ていました。今日の話では、貧乏であったラザロは貧しさや苦しみから解放され、金持ちは逆に苦しい生活をしていますので、一見胸のつかえが降りるような話となっていますが、金持ちが来世で苦しみを味わっているのは、この世の不公平をなくすためではありません。金持ちの「生き方・富の用い方」に問題があったからです。
今日は、宗教の専門分野である、「死と死後のこと」を取り上げます。
本論1 たとえで語られる人生の逆転
今の時代、死後での世界や新たな人生が存在を信じる人が、確実に減少しています。死後の世界や人生の存在を信じない人が半数を超えました。この差はこれからますます広がると予測されています。今は「見える事だけを信じる」世の中になっています。これまで日本で暮らす人の精神的な拠り所となっていた神道や仏教が徐々にかすんでいます。これから20年以内にお寺や神社の40%が消えていくと真剣に語られています。宮司や僧侶がいなくなり、経済的に破綻するのは確実とされます。
私たちが暮らす見える世界と同じように、見えない世界・霊的な世界が存在することが、ぼやけています。主イエスが語られた例えは、当時のイスラエルではごく普通に起こっていた世の中の現実でした。貧しさの中で人知れず死んでいく人、富んでいる中で周囲に目もくれず生活を楽しむ人の存在です。しかし、死はこれらの人にも平等にやってきます。ところがこの後、思わぬどんでん返しが、彼らの人生に起こります。立場が逆転していたのです。人生において、このような思いがけないことが起こることを主イエスは、人々に警告します。この地上の人生の延長に来世(日本的にはあの世)があるのではなく、来世では想定外のことが起こることを主は人々に語り掛けられます。
本論 2 金持ちが地獄に落ちた理由とは
このたとえ話の主人公は「貧乏人・ラザロ」ではありません。彼がなぜアブラハムの懐(ここでは神の国を想定)にいるのかは、主イエスは語られていないため不明です。しかし、金持ちが「よみで苦しむ」理由は明らかです。それは持っている富を貧しい人に施さなかったこと、人に対する憐みの欠如の結果です。持てる者は、それを貧しい人や困っている人に施し、「隣人愛」を表すことが律法で求められていました。しかし、彼はそれを実行しませんでした。その自己中心が彼を破滅させる結果につながりました。決して金持ちであったことが理由ではありません。富を得ることは、神の祝福の一つでもあります。
本論 3 金持ちが後悔ののち、願ったこと
例えの金持ちは苦しみの中で身勝手に憐みを求めますが、その願いはかないません。それを諦めつつも、まだ地上に残る自分の兄弟のことは気になりました。家族愛です。このままでは、同じ運命が待っています。それは避けたい、兄弟への愛情はちゃんと持っていました。このために、兄弟への警告のためにラザロを使わすことを願いますが、断られます。彼らには聖書があるので、それに聞くことが必要との返事でした。不思議なことに、これまで主イエスや弟子たちが「奇跡」を行っても多くの人は、それをいつしか忘れました。奇跡は人を驚かせることはできても、人々の人生を変えることまでは出来ませんでした。主イエスは「聖書」に聞くことが人生を変える力であることを示されました。「しるし」は、その人の生き方までも変える力がないことを見抜いておられたのです。
まとめ 与えられた機会を生かす
主イエスは、来世(神の国)から来られた方です。その方が神の存在や第二の人生の存在を語られました。誰もが一様に同じところ(あの世)に行くのでもなく、この地上の生き方で来世の待遇が決まることを語られます。しかし私たちの国は、仏教の来世観をどんなに聞いても、みんな一緒に行く「あの世」を考えています。ところがそのあの世すらも信じない人が、今の時代では確実に増えているのです。
人生はこの地上だけと考えることで、死後よりも今の生活を大切にすること、今のうちに人生を楽しむこと、死んだ後は「無」であると思うことで、余計な不安を持たないようにすること、このため葬儀も墓も簡素化することが自然に主流となっていきます。私たちはほかの動物と同じに、死んだときには「それで終わり」と考えようとしています。霊的なことや魂の存在がかすんでいるのが今の時代です。
もし、来世があったと気づいたときには、ただうろたえるだけとなります。主イエスがこの地上に来られたということは、来世からの使者として来られたことを心に留めましょう。来世があるのかないのか、あるとした場合に後悔しない生き方とはどう生きる事なのかを考える機会です。聖書は来世のことをこの地上とつなげて語り掛けます。目に見えるもの・実感できることに注意を向けすぎると、私たちが「魂を持つ霊的な存在」でもあることを気づけなくなります。聖書はこのことを私たちに教えてくれます。
祈りましょう。