ヨハネ19:1~16 心ならずも

2024.7.21 鳥居光芳


私達は毎週、礼拝の中で「主の祈り」を捧げると共に、「使徒信条」を告白していますが、この使徒信条は、プロテスタント教会だけでなく、カトリック教会も含めて世界中の教会で告白されている信仰に関する信条です。この使徒信条がいつ頃成立したのかは、はっきりしていないようですが、2世紀から3世紀にかけて、多くの人々の手によって徐々に成立していったようです。
この使徒信条には、聖書の大切な要点が網羅されていますから、礼拝の中でこの信条を告白するたびに、私達は聖書に対する信仰を告白していることになります。そういう意味で、使徒信条を理解していることは、聖書を理解していることになりますので、私が洗礼準備会を担当する時には、この使徒信条を学ぶことにしています。
この使徒信条の中で私達は、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、‥‥」と信仰告白をしています。「主」であるイエス・キリストは聖霊によって宿られたと告白することによって、「イエス様は神の子である」と私達は告白していることになります。それと同時にイエス様は、普通の人間には避けることの出来ない原罪の遺伝的継承から断ち切られていることをも告白していることになります。従ってイエス様には、原罪を含めて一切の罪が無いのですけれども、罪の無いイエス様が、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられました。どのような苦しみかという事については、もう言うまでもないのですけれども、彼によって、十字架刑の判決が下されたということです。
この様にイエス様はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられましたが、今日開いているヨハネ福音書19章には、ピラトが十字架刑を下すまでの経過が詳しく書かれていますので、今日はそこから学びたいと思います。
ところでヨハネ福音書には、ピラトという名前は出てきますけれども、それがポンテオ・ピラトと同一人物であるかどうかは、すぐには明言できないかもしれません。しかし、このヨハネ福音書と並行して書かれているルカ3:1、2に、「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督であり・・・アンナスとカヤパが大祭司であった頃、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」と書かれていますから、アンナスとカヤパが大祭司であった頃のユダヤ総督はポンテオ・ピラトであることがわかり、この事から、この二人の大祭司の名前が出てくるヨハネ福音書に書かれているピラトは、ポンテオ・ピラトのことであると分かります。
前回もお話ししたのですけれども、イエス様を捕えた役人たちは、・「まずアンナスの所に連れて行った。」とヨハネ18:13に書かれていますように、捕えたイエス様を、その時の大祭司であるカヤパの所ではなく、アンナスの所に連れて行きました。アンナスは、この時には大祭司を退いていましたから、イエス様を取り調べる権利はありませんでしたけれども、その時の大祭司であるカヤパのしゅうととして大きな力を持っていたのでしょう、イエスが果たして神の子であるのか、それともただの人間に過ぎないのか、自分で確かめたくて、イエス様を自分の所に連れて来るように命じたのであろうと思います。しかし、神の子であるのか、人間であるのか、よくわからないままであっただろうと思いますけれども、イエス様をいつまでも自分の手元に置いておくことはできませんから、アンナスは、この時の大祭司であったカヤパの所にイエス様を送りました。ヨハネ18:24に、・「アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところへ送った。」と書いてあります。
大祭司カヤパがイエス様をどの様に取り調べたかということについてはヨハネ福音書には書かれておらず、途中経過は一切省略されて、ただ18:28に、・「さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。」と書かれているだけです。しかしマタイ福音書によれば、イエス様は、大祭司カヤパから相当厳しい取り調べを受けたようです。マタイ福音書26:63によれば、カヤパはこのようにイエス様を尋問しています。即ち、・「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」と尋問しています。これに対してイエス様はどのように答えられたでしょうか。マタイ26:64に、このように記されています。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」とイエス様はお答えになりました。イエス様は、「あなたの言うとおりです。」と答えることによって、ご自分が神の子であることをお認めになったのです。そればかりか、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」とまでおっしゃいました。「人の子」というのは、ただ「人間の子」という意味だけではありません。それは、イエス様がダニエル書7章13章14節に預言されているメシヤであることを意味しています。そこには、このように預言されています。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」 とあり、このようなメシヤが、人間の形をとってやがてこの世に遣わされて来るという預言てす。大祭司カヤパは勿論のこと、ユダ人ならば誰でも、この「人の子」というのはメシヤのことであると知っていました。ですから、「あなたの言うとおりです。」というイエス様の答えを聞いたカヤパは、衣を引き裂いて叫びました。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」と言って、他の祭司たちの同意を求めました。同意を求められた祭司達は言いました。「彼は死刑に当たる。」 大祭司を初めとして全ての祭司・ユダヤ人は、神は唯一であって、その神に子供などいる筈がないと信じていましたから、ご自分を神の子だと主張するイエス様の言葉は、神を冒涜する以外の何物でもありませんでした。こうしてイエス様の死刑は実質的にこの時に決まり、後はそれをポンテオ・ピラトに認めさせるだけでした。
ヨハネ18:28には、・「さて、彼らはイエスをカヤパのところから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。」とありますが、彼らは夜中にイエス様を捕えてからまだ夜が明けないうちに、事態をここまで進めたのです。この当時、ユダヤはローマに支配されていました。ローマが他の国を支配する目的は、第1に税金を徴収するためであり、第2には、ローマ軍のために兵役に就かせるためでした。しかしユダヤ人は、律法によって安息日に働くことを禁じられていて、いくら敵と戦っている時にも、安息日になると戦おうとしませんから、兵士としては全く役に立ちませんでした。ですからユダヤ人は兵役は免除されており、もっぱら納税のためだけにローマに役立っていたようです。このようにユダヤ教が深く根付いているユダヤの国は、ローマにとっては扱いにくい国であったようで、ユダヤを支配するためにローマから総督として派遣されていたポンテオ・ピラトも、宗教的な事については、深入りすることのないように気を付けていたようです。イエス様がピラトの所に連れて来られた時にも、彼は、・「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言って、関わりを持つことを拒否しようとしたことがヨハネ18:31に記されています。しかし大祭司達による審きは既に終わっており、後はピラトによる最後の判断を待つだけになっていました。
しかしピラトには、自分の所に連れて来られたイエス様には、何の罪もないように見えました。この時は過ぎ越しの祭りの最中でしたけれども、この祭りの時には、犯罪人の一人を釈放する習わしになっていることをピラトは知っていました。そこでピラトは、この習わしを利用してイエス様を釈放しようと考え、言いました。ヨハネ18:39ですが、・「過越の祭りでは、だれか一人をお前たちのために釈放するならわしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」と聞きました。しかし、大祭司たちに煽られているユダヤの群衆は、叫んで言いました。・「その人ではなく、バラバを。」と言いました。このように、何とかして罪の無いイエス様を釈放しようとしたピラトの狙いは外れてしまいました。マタイ福音書やマルコ福音書によりますと、バラバというのは、イスラエルでは名の知れた政治犯に近い強盗であったようですが、このような凶悪犯を釈放してでも、罪の無いイエス様を十字架に架けようとする大祭司や、それに扇動されたユダヤの群衆の心の醜さに驚かされます。
しかしイエス様は、ユダヤの人々の心に潜むそのような醜い罪を全て引き受けて、それを処理するためにご自分が罪人となり、十字架に架かられたのです。幸いに私達は、当時とは違う時代に生きていますから、私達がイエス様を直接十字架に架けたというような事実はありませんけれども、もし私達がその時代に生きていたとするならば、自分を神の子とするイエス様を、はたして信じたでしょうか。聖書を通してイエス様の事を事細かく教えられていながら、なかなかそれを信じにくい私達であるとするならば、もし私達がその時代に生きていたならば、おそらくユダヤの群衆と一緒になって、「イエスを十字架につけろ。」と叫ぶ仲間に入っていたのではないでしょうか。イエス様を十字架につけたのはたユダヤ人だけでなく、今の時代に生きている私達も、一緒になってイエス様を十字架につけたのです。
イエス様が十字架に架けられた時、他に二人の者も十字架に架けられたと、ヨハネ19:18に短く書かれていますけれども、ルカ福音書には、その事が詳しく書かれています。私達が使っている聖書では、この二人の者は犯罪人と書かれていますけれども、二人の犯罪人の内一人はイエス様を信じて、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。イエス様は、その犯罪人を救うためにも十字架に架かられたのです。ですからイエス様は、その犯罪人に言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)とおっしゃいました。信仰を持っていてもいなくても、罪を犯した人は、この世では誰でも責任を問われますけれども、天国では、信仰を持っている人の罪は、イエス様の十字架の贖いによって全て赦されます。ですから、たとえどんなに大きな罪を犯した人でも、イエス様を信じるならばその罪は赦され、天国に入ることが出来るのです。イエス様と一緒に十字架に架けられた犯罪人の内の一人はそうでした。しかしもう一人の犯罪人は、天国に入ることは出来ませんでした。それは、イエス様を目の前にしていながら、信じようとしなかったためであると私達は知っています。イエス様を目の前に見ていても、あるいは知識として知っていても、それだけでは何の役にも立たないのです。信じなければなりません。
ピラトの方に話を戻しますが、ピラトは何とかしてイエス様を釈放しようと努めました。しかし群衆は、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫び続けるばかりで、ピラトの提案を受け入れようとはしませんでした。そこでピラトは、一種の賭けに出ました。その賭けとは、ヨハネ19:1~3に書かれていますように、何の罪もないイエス様を鞭打ち、またイエス様に棘の冠を被せ、且つ王であることを象徴する紫色の衣を着せて、「ユダヤ人の王様、万歳。」と言いながら兵士たちに頭を叩かせ、イエス様を愚弄したのです。このようにして散々痛めつけられたイエス様は、見るも哀れな姿になったことでしょう。そのような姿のイエス様を群衆の前に引き出せば、さすがの彼らもイエス様に同情して、釈放することに同意するのではないかとピラトは考えたのではないでしょうか。しかしピラトの考えは、ユダヤの群衆には届きませんでした。彼らは叫びました。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。」この声は、群衆の前で威厳を取り繕おうとしているピラトの心を震え上がらせるに十分でした。この時ユダヤの国はローマに支配されていましたから、ユダヤの王はローマ皇帝です。そのような状況の中で、ご自分がユダヤ人の王であることを認めたイエス様を釈放したとなれば、釈放したピラトは、ローマ皇帝に反逆したと見られるかもしれません。その事を大祭司たちがローマ皇帝に訴え出たならば、ピラトの立場はどうなるでしょうか。そのような事を思って、ピラトは内心震え上がったであろうと思います。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。」と言った大祭司たちは、19:15で、「カエサルのほかには、私達には王はありません。」とも言っています。ローマ皇帝であるカエサルは、形の上ではユダヤの国の王でもありますけれども、大祭司たちは、心の中では、天地万物を創造した唯一の神以外の人間など、自分達の王であるとは思っていませんでした。しかし、イエスを十字架に架けるためであるならば、「カエサルのほかには、私達には王はありません。」と言うくらいの事は、大祭司たちにとっては、いとも簡単なことでした。
イエス様に何の罪も認めなかったピラト総督は、何とかしてイエス様を釈放しようとしましたけれども、その思いを最後まで貫き通すことはできず、心ならずもイエス様を十字架に架けることを認めてしまいました。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。」という脅しの言葉に負けてしまったのです。これ程ローマ皇帝に訴えられることを恐れていたピラトは、ローマの歴史書によれば、ユダヤ人に対する別の殺傷事件の責任について訴えられ、ローマ皇帝の前で釈明することになりました。しかし釈明は受け入れられず、彼はユダヤ総督の地位から罷免され、輝かしい人生はそこで終わってしまったようです。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とイエス様はおっしゃいましたけれども、「イエス様には何一つ罪はない。」という、ピラトが初めに抱いていた思いは、「神の国とその義とをまず第一にする」ことに近かったかもしれません。その思いを最後まで貫いていたならば、彼のその後の人生は変わっていたかもしれません。しかし彼は、自分の社会的地位を守るために、心ならずもイエス様を見捨ててしまいました。私達は、このような事のないように、人生の最後まで「神の国とその義とをまず第一にする」ことに気を配っていきましょう。そうすれば、この世で生きていくために必要な物も、天国に入るために必要な物も、全て与えられます。

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