22024年7月7日 勝本正實
主 題 心の傷の痛みを忘れない
招きの言葉 詩篇121篇1~8節 今週の聖句 申命記8章11節
命 題 私たちはこれまでの人生の歩みの中で経験した、多くのことを忘れますが、同時に多くのことをまだ覚えていて、何かのきっかけで急に思い出します。また、その中には忘れてはいけないことを忘れてしまい、忘れた方が良いことを覚えていて苦しみます。今日は信仰の記憶に焦点を当て、忘れてはいけないと言われる「心の傷の痛み」について学びます。
序 言 たくさんある〇〇記念日
私たちは自分個人の人生でも社会の出来事でも、意味づけを好みます。本来時間は無色透明ですが、今日は〇〇記念日だとして、絶えず流れていく時間に意味を加えます。今日は良い日だったとか、いやな日だったとか言って、記憶の中にしまいこみます。ただ記憶の仕方の中で、案外大切なことを忘れてしまいます。そして自分を苦しめることになるつらい記憶が忘れられず苦しみます。聖書においても、神は私たちに忘れてはいけない事があると教えておられます。それは神さまと私たちの関わりのことです。聖書の教えでは、私たちは当の昔に神を忘れ、自分好みの都合のよい神々を創り出したと語られます。それが今も続いているというのです。聖書の記録は、忘れられた神と人間の回復の記録です。
本論1 脳は苦しかったこと、傷ついたことを記憶する
神さまは私たちの脳を、他の生物よりもすぐれたものとして造って下さいました。聖書の創世記1:26が語る、「人間は神に似せて作られた」と言われるその一部分です。記憶の中でも強い刺激を受けたことが、深く刻まれます。それは嬉しいことよりも、つらく苦しいことが刻まれます。同じ苦しみを再び経験しないための防衛本能です。私たちがつらく苦しい記憶をなかなか消すことが出来ないのはそのためです。聖書の中で、神さまが「悔いる」と言われているのは、苦しい記憶を神様も抱えておられるとの人間的な表現です。神様にも悩みや心配はあると言うことです。それは私たちとの関わりにおいてです。
神さまの悩みの一つは、私たち人間が忘れやすい存在であり、この為に同じ失敗や挫折を何度も繰り返すことにあります。同じことを繰り返すために、何度も同じことを言わなければならず、同じことを経験することになります。ですから今日の申命記8章の記録のように、念押しが必要でした。時間が経ち、人も世代が入れ換わっていくからです。聖書のみ言葉に注目しましょう。
本論 2 信仰には初心がある
皆さんが教会に来られた、或いは信仰を持たれたのは何年前のことでしょうか。時間がたつとその記憶があいまいになっていきます。そして、どんな思いや決心を持って信仰の道を歩もうとしたのかも記憶が薄れます。私たちは常に変化する生き物です。細胞も日々入れ換わります。環境も考えも変化します。一つ所にとどまっていません。大切にしている事も変わっていきます。仏教では「諸行無常」と言い表しました。神道では「自然の流れ」と言い表しました。私たちも一つ所・状態にとどまることはありません。
しかし、変わってはいけないこと、守っていくべきことが個人にもあります。信仰においては、初心を忘れるなという部分です。イスラエルの人にとって、神さまとのきずなは変えてはいけないことでした。このことをイスラエルの人たちは、年間行事例えば過ぎ越しの祭りやプリムの祭りなどによって守ってきました。しかし、それらへの感動も次第に色あせていきます。イスラエルにとって、「出エジプト」こそ民族の始まりでした。イスラエルをまとめ上げたのは、宗教的な結束でした。彼らは、困難をとおり、苦しみの中で、神の助けを受けて生き延びた人たちでした。生きていられるのが不思議という体験をしたのです。しかし、穏やかで平凡な生活は少しずつそれを忘れさせることになります。
本論 3 人生は価値観による選択の積み重ね
人生にとって「喜び」は勲章・報酬ですが、「苦しみ」は記念碑であり、再出発の時です。私たちは経験したことや学んだことを栄養・エネルギーとして、人生を作り上げていきます。たくさんのことを考えますが、実行したことが結果として残ります。信仰の歩みにおいて、神さまとのかかわりの歴史が、実績となります。ナメクジが葉っぱの上を移動したときに、その記録が後にすじとして残ります。信仰の歩みは、山あり谷ありの歩みです。多くがドラマチックではありませんが、足跡は神さまに記憶されます。神さまを用済みとしないこと、信仰の最終目標がどこにあるのかを忘れないようにしましょう。人生の歩みの中で手掛けることは、多くは中途半端に終わります。作りかけの未完成で終わります。しかし、人生の中でいくつかのことは、その人にとって大切なことがあります。その一つが信仰の歩みを全うすることです。
まとめ 人生は心がけ次第
聖書は多くの方の人生・生きざまを記録しています。多くの方が人生の半ばで終わります。中途半端で終わります。思いがけない終わり方をします。自分にとっては不満ですが、それはどうしようもないことです。なかなか天寿を全うする、大往生とはいきません。道半ばであっても信仰の歩みを止めないようにしましょう。続きは第二の人生で続くことになります。信仰を求めた時は、何か思うことがあったはずです。それは心に痛みやうずきや飢え渇きを感じた時です。その感覚をなくさないことが必要です。人生は私たちに起こってくることによってきまるだけでなく、私たちがそれをどう受け止めるかで、変わっていきます。信仰はその受け止め方を教えてくれます。信仰は悪いことが起こらないための防波堤ではなく、起こってくることの意味や受け止め方を教えてくれることに祝福・魅力があります。
祈りましょう。