ヨハネ19:17~42 成就した救いの計画

2024.8.18 鳥居光芳


神様が、人間の祖先であるアダムとエバを創り、エデンの園に置かれたとき、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」と言って二人を励まされました。神様は、アダムとエバの子孫が、地上に増えることを願っておられたのです。エデンの園には色々な木が生い茂っており、その実を食べることによって、アダムとエバは永遠に生きることができる筈でした。しかし神様は二人に、このような注意をお与えになりました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17) とおっしゃいました。善悪の基準は神様が作るものであって、人間はそれに従うだけです。人間が勝手に善悪の基準を作ったり、変えたりしてはならないのです。ですから神様は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」とおっしゃったのです。ところが、善悪の知識の木の実があまりにも立派でおいしそうでしたので、二人は思わずそれを採って食べてしまいました。その結果、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われていたとおり、人間は勿論のこと、人間に支配されているあらゆる生き物に寿命というものが入り込み、必ず死ぬこととなってしまいました。
しかし神様の思いはアダムとエバを創った時と変わらず、人間と永遠に交わりを持つことを望んでおられます。そこで神様は人間世界に、善悪の知識として、「十戒」に代表される戒めを与え、その戒めを守った者には永遠の命を与えようとされました。その時神様は、このようにおっしゃいました。申命記11:26~28ですが、「11:26 見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。11:27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、11:28 もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」とおっしゃいました。神様は、ご自分の戒めである命令を守る者には祝福を与えるとおっしゃいましたけれども、その祝福の中には、永遠の命も入っていたことであろうと思います。
しかし神様がいくらこのようにおっしゃっても、いったん罪の虜になってしまった人間に、神の戒めを守ることは出来ませんでした。戒めを守ることの出来ない者には、永遠の命を与えることは出来ません。しかし何とかして私たち人間に永遠の命を与えたい神様は、独り子であるイエス・キリストをこの世に送り、そのキリストに人間の罪を負わせて十字架に架け、それによって人間の罪を全て処理し、永遠の命を与えようとなさいました。
今日はヨハネ福音書19章の17節以下を開いていますが、そこには、私たち人間に永遠の命を回復させるために、神様が、ご自分の立てた計画を次々に成就していく様子が書かれています。神様からこの世に遣わされたイエス様は、運が悪かったために捕らえられ、十字架に架けられたのではありません。アダムとエバが罪を犯したことによってこの世に寿命というものが入り込んで以来、人間に永遠の命を回復させるために神様が立てた救いの計画を成就するためであったのです。
その計画とは、独り子であるイエス様をこの世に送り、そのイエス様を、人間の罪のための犠牲とすることでした。そこには神様にとってどれほどの苦しみがあったか、人間が知らずにいてはなりません。人間の罪のために独り子を与える事がどれほど辛いことかを人間に知らせるために、神様は、「アブラハムとイサクの出来事」を起こされました。それは創世記22章に書かれているのですが、ある時神様がアブラハムに言われました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とおっしゃいました。これまで神様に忠実に従って生きてきたアブラハムにとって、なんと辛い・むごい神様の言葉だったでしょうか。しかし神様が独り子であるイエス・キリストを犠牲として十字架に架けて下さったという事は、そのような事なのです。それ程厳粛な出来事として、私達は、イエス様の十字架の死を理解しているでしょうか。イサクは、生贄として屠られようとする寸前に神様によって助けられましたけれども、イエス様は助けられることなく、そのまま殺されてしまいました。
ヨハネ福音書の19章の方に入りますが、17節に、・「イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。」とあります。イエス様はゴルゴダの丘で十字架に架けられたのですが、ゴルゴダというのは「どくろ」という意味であるということが聖書からわかります。そこをゴルゴダというのは、亡くなった人達の骨が、そこには沢山埋められていたからだであるとか、地形がどくろに似ていたからであるとか言われています。このゴルゴダというのはヘブル語ですが、ラテン語ではカルバリーと言われており、新聖歌112番の「カルバリ山の十字架に就きて」というのは、ゴルゴダの丘のことです。
このゴルゴダの丘は、昔イサクが犠牲として献げられようとしたモリヤ山の近くにあるか、あるいはモリヤ山そのものであると言われています。それは、Ⅱ歴代3:1に、このように書かれているからです。即ち、「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。」と書かれています。これによれば、エルサレムの神殿は、モリヤ山の山上に建てられたことがわかりますが、ゴルゴダの丘は、エルサレムの市内から、イエス様がご自分の十字架を担いで歩いて行くことの出来た距離にありますから、そこはモリヤ山の山頂近くであろうと思います。当時十字架に架けられる囚人は、自分で十字架を担いで行ったそうですが、イエス様も自分がかかる十字架を、自分で担いでゴルゴダの丘まで行ったのです。アブラハムの息子のイサクも、自分を焼いて犠牲とするための薪を、自分で担いでモリヤの山を登りました。
ローマ兵たちは、イエス様に十字架を担がせてゴルゴダの丘に連れて行き、そこでイエス様を十字架につけたということが19:18に書かれていますが、そこに書かれていることによりますと、イエス様と一緒に二人の囚人も十字架に架けられたということです。このような事が聖書に書かれているのは、イエス様が十字架に架けられたのは、救い主としてではなく、囚人の一人として架けられたのだという事を、誰の目にも明らかにするためでした。このように、イエス様が囚人と一緒に十字架に架けられることは、イザヤ書53:12に預言されていることでした。そこには、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」と書かれています。イエス様は、私たち人類の罪を負い、執り成すために、囚人となって十字架に架かられたのです。一緒に十字架に架けられた二人の囚人の内の一人が言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)と言いました。これに対してイエス様は言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言って、この囚人のために執り成しをされました。この囚人がパラダイスに入ることが許されたのは、入るに相応しい何か良い事をしたからではありません。ただイエス様が救い主であることを信じただけです。このように、イエス様が囚人と一緒に十字架に就けられたのは、先ほどのイザヤ書に預言されていたことの成就でした。
ヨハネ福音書の方に戻りますが、19章19節に、・「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス。」と書かれていた。」とあります。それは、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたとありますから、誰でも、どれかの言葉で読めたであろうと思います。祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王」ではなく、「ユダヤ人の王と自称した」と書いて下さいと願いましたが、ピラトは、「総督である自分がそのように書いたのから、そのままにしておけ。」と言って、取り合いませんでした。イエス様には何の罪もないことが分かっていながら、祭司長たちに押し切られて、イエス様を十字架に架ける決定をせざるを得なかったピラトにとっては、唯一自分の思いを押し通したのがこの罪状書きですから、これだけは祭司長たちに妥協することは出来なかったのでしょう。ピラトも内心では、ユダヤ人の王はイエス様ではなく、この当時ユダヤを支配していたローマ皇帝であると思っていたでしょうけれども、この罪状書きによって、イエス様がユダヤ人の王であることが公式に決まったと言えます。
イエス様がお生まれになった時にも、東の国から博士達がやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」(マタイ2:2)と尋ねました。イエス様は、お生まれになった時には、東の国の博士たちからユダヤ人の王と認められ、死ぬ時には、ピラト総督から罪状書きに、「ユダヤ人の王」と書かれましたけれども、肝心のユダヤ人からは、ユダヤ人の王と認められたことは一度もありません。今でもユダヤ教では、イエス様を救い主とは認めていないということを聞く時、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」というイエス様ご自身のお言葉のとおりであることを思います。しかしユダヤ人がどのように思おうとも、イエス様がユダヤ人の王としてお生まれになったことは、旧約の時代から預言されていことでした。例えばエレミヤ23:5に、「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」と預言されています。今は未だユダヤ人の多くは、イエス様を自分達の王とは認めていませんけれども、やがて認めるようになります。やがてとは、いつでしょうか。それは、異邦人に福音が行き渡った後であると聖書に預言されています。ローマ11:25,26に、このように預言されています。「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる。」と預言されています。世界で福音が行き渡る最後になるのは、日本かも知れません。そうしますと、日本に福音が行き渡った後にイスラエルが救われ、それから、この世の終わりが来るのかもしれません。
なお当時は、死刑囚が十字架に架かる時に脱いだ衣服は、死刑を執行する役人たちのものとなる習慣がありました。死刑を執行する役人は4人と決められていたそうですから、イエス様の着物は4つに分けられました。しかし下着は、上から下まで一つに織られた縫い目のないものでしたので、これは四つに分けないでくじ引きにしたということが24節に書かれています。このことも旧約聖書に預言されていた事で、詩篇23:18に、「彼らは私の衣服を分け合い、 私の衣をくじ引きにします」と書かれています。
十字架に架けられたイエス様は、間もなく息を引き取ろうとしていますが、後に残される母マリアのことが心配でした。イエス様には兄弟も姉妹もいましたから、自分がいなくなった後のお母さんのことについては、彼らに託すのが自然ですけれども、この時には彼らは未だイエス様を信じていませんでしたから、そのような彼らに母を託すのは不安でした。そこでイエス様は、12弟子の中でも最も信頼できる一人であったヨハネに、母マリアを託すことにしました。イエス様は、ペテロをも同じように信頼していたであろうと思いますけれども、ペテロは、イエス様が十字架に架かってから間もなくローマ皇帝ネロに捕えられ、殉教の死を遂げていきます。イエス様はそのことを予め予知していたのではないかと思いますが、殉教が定められている者に対して、マリアの世話という足かせとなるような事を頼むわけにはいきません。一方ヨハネには殉教する定めはない事をイエス様は予知されていたために、彼に自分の母を託したのかも知れません。またイエス様とヨハネは従兄弟どうしの関係にありましたから、全くの他人のペテロよりも、ヨハネに頼む方が頼み易かったのであろうと思います。そしてイエス様が予知していたとおり、ヨハネは殉教することなく12弟子の中では一番長寿を全うし、最後までマリアの面倒をみたということです。
このようにイエス様は、自分が亡くなった後の母マリアの事を大変心配なさいましたけれども、このようにおっしゃった事もありました。口語訳聖書ですけれども、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26)とおっしゃったことがあります。キリスト教を批判する人の中には、この言葉を取り上げて、「キリスト教は、日本の麗しい家族関係を破壊するものだ。」と批判する人達がいました。それは、「父や母を捨てるようでなければ、わたしに就いてくることは出来ない。」とイエス様がおっしゃっているからです。しかしこのような解釈は全くの誤りであって、イエス様がおっしゃろうとしたことは、「日常生活の中で、イエス・キリスト以上に頼りにするものがあってはならない。」ということです。「偶像を礼拝してはけない。」ということです。イエス様は、母のマリアを大切にされました。聖書の中には、このような御言葉もあります。Ⅰテモ 5:8ですが、「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は 信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。」とあるのを忘れてはなりません。
次に19:28ですが、・「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。」とあります。このように訳されますと、あたかもイエス様が、「旧約聖書に預言されていることを成就するために、自分はここで、「わたしは渇く。」と言わなければならない。」と、何かに強いられているような感じを受けないではありません。そのてん新共同訳聖書では、このように訳しています。「この後イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」と訳しています。旧約聖書に「わたしは渇く。」と書いてあるから、イエス様は、「渇く。」とおっしゃったのではなく、イエス様がおっしゃった、「わたしは渇く。」という意味の事が、旧約聖書に書かれていたということであって、順序を逆にしてはなりません。詩篇22:15に、このように書かれています。「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」と書かれています。ここには、「渇く」という言葉と全く同じ言葉が使われているわけではありませんけれども、同じ趣旨の事が詩篇に預言されていました。イエス様が、「渇く。」とおっしゃった理由は、十字架に釘で打ち付けられた手足から血が流れ出て行くことによる体の渇きと、人類の全ての罪を背負って自分が罪人となったことにより、神様から一時的に見捨てられことによる心の渇きであったことであろうと思います。
最後に30節ですが、・「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。」とあります。イエス様は、十字架の死を通して何を完了したのでしょうか。それは、人類の罪からの救いです。この救いのためにイエス様は、旧約聖書に預言されている事の全て成し遂げて下さいました。後は、その救いを私たちが受け取るだけです。どうしたら受け取ることが出来るのでしょうか。それは、「イエス様が十字架に架かられたのは、この私のためであった。」という事を信じることです。そうする事によって、私たちは誰でも、昔アダムとエバに与えられていた永遠の命を再び受けることが出来ます。

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