22024年8月4日 勝本正實
主 題 心の傷の痛みを忘れない
招きの言葉 詩篇124篇1~8節 今週の聖句 ローマ書15章4節
命 題 私たちはこれまでの人生の歩みの中で経験した、多くのことを忘れますが、同時に多くのことをまだ覚えていて、何かのきっかけで急に思い出します。また、その中には忘れてはいけないことを忘れてしまい、忘れた方が良いことを覚えていて苦しみます。今日は信仰の記憶に焦点を当て、忘れてはいけないと言われる「心の傷の痛み」について学びます。
序 言 信仰の事は素人に始まり、熟練に進む
私たちは信仰について、成長の段階でその基本や基礎を家庭や学校で学んで来なかった。この為、信仰については初心者であり、素人である。生活の中でお寺や神社に行ったり、仏壇やお墓に手を合わせることはあってもそれは習慣であった。教会に来た時は、不安と戸惑いの中で始まった人が多い。見よう見まねで始まり、少しずつ理解を増した。
その中で、疑問に思うことや現実離れしたことをどう理解して良いのか、迷いながらも求道を続けた。主イエスのもとを訪ねてきた人たちは、主イエスの言葉や奇跡に驚きながら、それぞれが求めることに主が応えてくれることを期待した。今日の聖書個所はそうした人々が、理解不可能な主のことばに幻滅し、去っていく姿が描かれている。それは主イエスの計画の中にあった。つまり、信仰のゆすぶりを掛けられたのである。
なぜか、それは信仰を自分の知識や経験の範囲だけで理解すると、信仰が破たんすることが起こり、たとえ理解できなくとも、神の意図や御心を探ろうとするものが、神の助けを得て信仰を得ることが出来ることを示されている。つまり信仰は、こちらの人間の側の努力が決まるのではなく、神の側の働きの結果として得ることが出来るので、「神に聞く・神に尋ねる」姿勢が大切だと教えておられる。
本論1 不安や迷いは、信仰にもつきものである
普段生活は一日も同じ日ではありえない。この為、私たちは心に心配や不安を抱えながら生活している。心配事や不安ごとは、一分でも早く解消し安心を得たいと努力もする。
この癖があるため、いつも解決を急ぎ始末をつけようとあせる。不安や心配が長引くと、心と体に病気が生じ、生きる力が失われていくのが現実である。
このことが信仰の分野でも起こる。そこで考えるのを避けたり、ごまかしたりしてしまう。しかし、いつまでもそれは通じない。このため、信仰に対して距離を取ったり、疑いや迷いを悪いことだと考えてしまいがちだ。しかし、信仰に疑問や迷いを感じることは自然なことである。見える世界で暮らし神様とはあまりに違う私たちが、信仰をすんなり理解できるほうが不思議だ。さらに私たちはこれまでの人生で、失望したり裏切られたりしたことがあるので、簡単には信じられなくなっている。見える人間を信じられないのですから、見えない神さまや経験のないことを、すんなり信じられるわけがない。よって、不安や迷いや疑いは当然のことだと言えよう。
本論 2 主イエスは、弟子たちの疑問や不安を受け入れた
主イエスは、多くの人に神の国の福音や価値観を、人々に語られた。同時に奇蹟を用いて、神の存在や力をも示された。その中から、限定されて弟子たちを選び、約3年間の間に寝食を共にして、言葉と行いを持って彼らを訓練された。弟子たちに質問をし、彼らに実行させ、ご自分がみ国に帰ることへの備えをされた。不完全でゆっくりであっても弟子たちは成長していった。
それと同時に、人々に対しても教育と選別を行われた。多くの方たちが主イエスを信じていたが、その中には損得で動く人、信仰を本当は分かっていない人も交じっていた。この為、ヨハネ6章に記されたような、あえて失望させ混乱させる中で、真の信仰者の選別も行われたのだ。このことを「つまづく」と呼んでいる。全ての人に招きはありますが、神を選ぶ人は限られており、また神に選ばれる人も限られる。
本論 3 生活の訓練の中で、聖霊は確信へと導く
信仰に関する理解は、私たちがこれまで培ってきた知識や経験だけでは理解不能である。見えない方、私たちと余りにも違う方をどのように理解し、信じることが出来ると言うのだろうか。答えはある。それは神様の側から信じさせて下さる。例えばヨハネ3章に記録されている、二コデモと主イエスの話のやり取りの中で、主イエスは神様の側から理解させて下さることを語っておられる。人間には理解できなくとも、神様なら理解させられるのだ。
このかぎを握っておられるのが、聖霊なる神さまである。私たちの心と知識に働きかけて、受け入れることが出来るようにしてくださる。私たちにはその働きは分かりませんが、結果として信じられるようになる。風は見えなくとも吹いている事を感じることが出来るようなものである。それは求めることによる。ほっておいて皆そうなるわけではない。
求めること、希望することが大切である。
まとめ 信仰は迷いや疑いの中で育つ
私たちは、信仰を求めること、理解しようと願うことが大切である。今は分からなくとも、時が来れば理解できるとゆだねる。あくまでも自分の知識や経験に頼ると息詰まってしまう。私たちと神様は、器も考える能力も存在も違うからだ。同じ人間ですら理解することが難しいのに、異質な方を理解できるのは、神の側から教えて下さる必要がある。私たちの迷いや疑問や疑いは、人として当然であり、それを自然なこととして求めていく中で、導かれるのだ。求めるものに応えてくださる神である。
祈りましょう。