22024年9月1日 勝本正實
主 題 理不尽なことがらをどう受け止めるか
招きの言葉 詩篇127篇1~5節 今週の聖句 詩篇 56篇 8節
命 題 私たちの人生や周囲の人に、思いがけない事が起こる時、私たちはどう理解していいのか分からない状態となります。また無意識の内に私たちは意味を問い、苦しみを乗り越えようとします。しかし理不尽な事は容易に受け入れ難く、苦しみも消えません。信仰者は神がなぜそれを許されるのかを問いかけます。
序 言 自分の事でも周りの事でも理不尽な事は起こる
今日のメッセージの主題は、私たちの生活の周りでも起こる、人生の理不尽な出来事についてです。思いを越えたショッキングな出来事に出合う時、或いは話を聞いた時、私たちは何とかそのわけを知ろうとしてしまいます。例えば命に係わる病気や事故・災害・殺人・戦争・疫病など。その謎は解けず、私たちの心をかき乱します。そうした事は、情報の多い社会では聞きたくなくても毎日のように報道されます。いつの間にか次第に慣れてしまいますが、身近に起こる時、平安はたちどころに打ち砕かれます。聖書の中にも理不尽な出来事が記され、それに翻弄された人たちが出てきます。今日の聖書箇所もその一つです。今日はこの箇所から、「理不尽な事をどう受け止め、自分なりに納得するのか」について学びます。
本論1 耐え難い苦しみは生きる力を奪う
聖書の中にもこうした理不尽な事、理解しがたい事が記録されています。そして神さまはその意味を説明されていません。今日の箇所に記された、「ウリヤ」の身に起こったことは、気の毒としか言いようのない事柄です。絶対的な権力者の前に無残に抹殺されてしまった、信頼された立派な兵士の姿です。その彼を陥れたのは、あの信仰者ダビデでした。そしてウリヤの死後、周囲では何事もなかったかのように生活が続けられて行きます。
このような事態になった理由を考えれば、そこにあるのはまさに人間のエゴ・自己中心です。それとともに疑問が起こるのは、神様はなぜこれを途中ででも止められなかったのか、という疑問です。聖書箇所によっては前もって警告された場合もあれば、途中で介入された事もありました。なのに「これほどの事が起きたのに、なぜ」と思ってしまいます。
私たちの身近でこうした事が起これば、生きる力が無くなってしまいます。神に対し、人に対し、世の中に対し、大きな失望と無力感に襲われて、時間が止まってしまうでしょう。たとえ、その後何とか生活を続けられたとしても、心の傷はいえることはないでしょう。大なり小なり私たちは、こうした心の痛みや傷を抱えています。それが生きる力を奪うのです。
本論 2 神はなぜ理不尽な事を許容されるのか
こうした問いかけを神様に向ける時、それが無茶な事であると知っています。神さまは私たちのガードマンではなく、便利屋さんでもありません。むしろ神さまは私たちの上の方であり、私たちのほうが迷惑と心配をかけているのですから。「なぜこんなことが」と問いかけて責任を向けるのは、本当は筋違いなのです。しかし、誰かに答えを出してほしいと願う時に神さまに問いを向けてしますのです。それは子供が何か気に入らない事があると、親や周りの人のせいにしたがるのと似ています。
人間の住む世界を作り、その管理を人間に委ねられた神さまは、毎日の営みを人間の行いに委ねられました。神さまの知らない事はありませんが、その営みは人間に委ねられます。ただ必要とされた時、また私たちが神の介入を求めた時に神は、私たちの生活と世の中に介入されます。普段の私たちはそれを喜んで暮らしているのです。しかし何かがあると、急に誰かのせいにしたがります。神さまはその攻撃の的にされます。世の中で起こることは、人類の営みの結果であり、特定の誰かのせいには出来ません。
今日の聖書の場合は、責任はダビデ自身が起こした「身勝手な欲望」の結果であり、それから誰も(バテシバも側近も兵士も)恐ろしくて逆らえなかったという事です。しかしその報いはダビデが後に家庭の混乱と言う形で負うことになります。
本論 3 どのようにして自分の心を納得させるか
皆さんのこれまでの人生で、ご自身がこうした理不尽なこと、納得できない事に出会った事や身近な人が理不尽な事を経験した事がないでしょうか。大なり小なりおありだと思います。それらは時間の経過の中で、心の奥にしまいこまれる事もあれば、忘れがたい記憶として、今も生活の中で痛みとして残っている事もあるでしょう。人々が言う「神も仏もあるものか」という事態が起こります。
心の痛みを抱えて生きるのは辛い事なので、答えを探しますが簡単には見つかりません。それでも今日や明日を生きなければなりません。こんなときどうすればよいでしょう。人に話すのも難しく、だからと言って酒に助けを求めるのも続きません。納得できない事は、一応保留にするしかないと思います。今は分からないがあとでなら分かる時もあるかも知れない。生きていくことは大変だけど、生きていくしかないと割り切ろうとする。とにかく今の事を優先するしかありません。それが出来ないと一歩も進めなくなり、自分も家族も共に沈んでしまいます。
つまり無理に納得させる必要はないのです。疑問は疑問として、怒りや悲しみは無理矢理に抑え込まないで、自然の流れに任せておいて、まず今日を生きることを優先する事です。信仰者の場合は、結論や結果は神に預けて、今日に生きる中で立ち上がる事なのだと思います。最終的な審判は、神さまご自身がつけられます。
本論 4 たとえ神のみ心が分からなくとも
旧約や新約聖書に記録された出来事を読んでみる時、人が成した理不尽な・納得できないことに対して、また自然災害や疫病に対して、神様が対処されている事もあれば、何事も起こっていない数多くの事が記録されています。私たちは神様への期待として、神さまの守りや救いがあると信じたい気持ですが、こうした理不尽な事は信仰のあるなしによらず、また人間としての立派さや正しさに関わりなく起こっているのです。正しい人が幸せになり、悪人が苦しむとは限りません。世の中はもっと複雑です。
つまり私たちが生きるこの社会だけの領域で考えれば、神のみ心がどこにあるのかを理解し、納得することは難しいのです。考えてみれば主イエスご自身の人生もまた暴虐の中で行われました。この地上だけでつじつまを合わせ納得し、了解することは出来ません。ここに神の身手にゆだねると言う始末の仕方を求められています。
まとめ 理不尽なことをそのままで見る
私たちの許容範囲を超えた事、納得の範囲を超えたことに対し、私たちの身と心は激しく怒りと憎しみと不満を感じますが、事実を事実として現実を現実として、見る以外に生きる力は生まれません。そうでないと私たち自身が壊れてしまいます。今日を生きる力がわきません。
神の正義と裁きに委ねることこそが、今日を生きる私たちに出来る事です。
祈りましょう。