2024.9.15 鳥居光芳
キリスト教のシンボルマークは十字架ですけれども、カトリックとプロテスタントでは、同じ十字架でも違いがあることは、どなたも気付いておられるであろうと思います。カトリックの十字架は、イエス様が釘付けされている状態を表している十字架であるのに対して、プロテスタントの十字架には、イエス様の姿は見当たりません。プロテスタントの十字架は、2枚の板切れを十字状に組み合わせれば簡単に出来てしまうのに対して、カトリックの十字架は、十字架につけられたイエス様の姿を刻まなければなりませんから、手が混んでいて高級感があり、こちらの方が有難味があるような気がしないでもありません。しかしある先生がおっしゃったのですが、カトリックの十字架は、イエス様が罪の贖いをして下さっている状態を象徴しているのに対して、イエス様の姿が無いプロテスタントの十字架は、罪の贖いだけではなく、イエス様が死から甦ったことを象徴しているのであるから、プロテスタントの十字架の方が有難いのである、と言わんばかりでした。確かにイエス様が十字架に架かって下さった事により私達の罪は贖われ、罪が赦されたのですけれども、イエス様が十字架に架かって下さったのは、罪を赦すためだけでなく、罪を赦された私たちに永遠の命を与えて下さるためでした。その為に、十字架の上で死んだイエス様は、死んだだけでなく、甦る必要がありました。イエス様の死と甦りは、二つで一組であり、どちらか一つでも欠けてはならないのですけれども、イエス様の姿の無いプロテスタントの十字架は、確かにイエス様の死と甦りを象徴していると言えます。
イエス様が十字架に架かられたのは、金曜日でした。それはヨハネ19:42に、・「(イエス様が十字架に架けられた)その日はユダヤ人の備え日であり、・・・」とあることからわかります。「ユダヤ人の備え日」というのは、「安息日に備える日」、即ち「安息日の前日」ということですけれども、キリスト教の安息日は、イエス様が死から甦った日曜日であるのに対して、ユダヤ教の安息日は土曜日です。その前日の金曜日に、イエス様は十字架に架けられました。神聖な安息日に、十字架に架けられた死体が人の目に触れるようなことがあってはいけませんから、イエス様の体は急いで十字架から降ろされ、ユダヤの埋葬の習慣に従って、体に香料が塗られ、亜麻布で巻かれた上で、墓に葬られました。日が暮れる直前の慌ただしい作業であっただろうと思いますけれども、そのような作業をしたのは、密かにイエス様を信じていたアリマタヤのヨセフと、ニコデモという二人の男であったことが、ヨハネ19:38,39からわかります。
しかし男のした作業ですから、どこかに手落ちがあったのではないかと、女たちには心配であったようで、彼女たちは、イエス様の体に香料を塗り直すつもりで、その準備をしていました。しかしいくら準備は出来ても、ユダヤには律法があって、安息日には一定の距離以上は出歩くことができませんから、埋葬された翌日の安息日に墓の様子を見に行くことはできませんでした。じりじりしながら安息日が終わるのを待っていたでしょうけれども、安息日が明けた日曜日の朝早く、マグダラのマリアが墓の様子を見に行ったということが、ヨハネ20:1に書かれています。2節に「私たち」という表現がありますから、墓に行ったのはマグダラのマリア一人だけではなく、何人かの女も一緒に行ったという事がわかりますけれども、様子を見に行くことに一番熱心であったマグダラのマリアの名前が、代表者としてヨハネ福音書には書かれているのでしょう。しかしどの福音書を見ても。イエス様の母マリアは墓に行っていないようです。我が子が十字架に架けられるのを目のあたりにしたショックで、母マリアは、墓の様子を見に行く気力も失っていたのでしょう。
マグダラのマリアは、以前にはいろいろな病を抱えていた女でしたが、イエス様に完全に癒されて以来、いつもイエス様の伝道旅行に付き従うようになった女性です。ルカ8:2に、このように書かれています。「悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちも(イエスと)いっしょ(に旅をした。)」と書かれています。このマグダラのマリアは、カトリック教会では、今は聖女として崇められていますけれども、イエス様に病を癒される前は娼婦であったと言われています。それは、ルカ7:37、38に、このような事が書かれているからです。即ちイエス様が、あるパリサイ人の家に招かれて食事をしていた時、この町で罪の女と言われている者が入って来てイエス様の足元に近づき、涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛で拭って、香油を塗りました。この女がマグダラのマリアだったのですが、イエス様を食事に招いたパリサイ人は、それを見てこの様に思いました。「この方(イエス)がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思った、ということがルカ7:39に書かれています。そしてこの時イエス様は、「多くの罪を赦されたことを自覚している人ほど、多く愛するようになる。」という話しをされています。イエス様を信じている私達は、既に罪を赦されて、永遠の命を頂いているのですけれども、どれほど多くの罪を赦していただいたか、自覚しているでしょうか。多くの罪を赦されたと自覚している人ほど、イエス様を多く愛するようになります。罪というのは、法律的に、あるいは道徳的に、何か悪い事をしたというだけではありません。イエス様やその教えを無視したり、ないがしろにしたりする事は全て罪です。私たちが、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、私達の神である主を愛」(ルカ10:27)することを、神様は求めておられます。
マグダラのマリアは、イエス様が墓に葬られたとき、墓の入り口に大きな石が置かれて塞がれたのを見ていましたから、女たちだけで行っても、墓の中に入れないことはわかっていたはずです。しかし、その事を忘れてしまったほどに、頭の中は、イエス様にお会いしたい気持ちでいっぱいであったのでしょう。しかし墓に着いてみると、石は既に取り除けられていて、墓の入り口は大きく開いていました。それを見たマリアは、イエス様の体が誰かに盗まれてしまったと思ったようです。死体なんか盗んでどうするのか、と思われるかもしれませんけれども。盗み出したイエス様の死体を多くの人の目に晒して、更に侮辱を加えようとする人達がいたのでしょう。
そのような事になってしまう前に止めなければなりませんから、マリアは急いで取って返し、シモン・ペテロと、イエス様に愛されていたもう一人の弟子に知らせたという事が、20:2に書かれています。イエス様に愛さていたもう一人の弟子というのは、このヨハネ福音書を書いているヨハネ自身のことです。私たちもイエス様に愛されている一人一人ですけれども、「自分は、イエス様に愛されている。」と自覚しているでしょうか。「次から次へと辛い事ばかり起きて来て、とても愛されているようには思えない。」と思うような時があるかもしれませんけれども、決してそうではありません。信仰を持っている私たちに対して神様は必ず、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言って下さるのです。しかし神様は、私たちの信仰を鍛えるために、時には試練を与えて下さることもあります。ヘブル12:6に、「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」とあるとおりです。しかし神様は、私達を苦しめるのが目的で試練を与えるのではありません。私達が、滅びに至る広い門の方に近づいて行くことのないように、永遠の命に至る狭い方の門を通って行くようにと、導いて下さっているのです。私達が自分自身の事をどの様に思っていようとも、信仰を持っている私達は、神様にとっては高価で貴い存在なのです。そのような私達を神様はいつも愛して下さっているという事を忘れてはなりません。
自分の事を、イエス様に愛されている弟子と自覚していたヨハネは、晩年になってからは、「兄弟たちよ、互いに愛し合いなさい。」と言うのが口癖になり、「愛の使徒」と言われるようになったそうですけれども、若い頃は短気で血気にはやる人であったようで、兄のステパノと共に、イエス様から「雷の子」と言われるほどでした。マグダラのマリアから知らせを受けた時にも、墓の様子を見に行くために、ヨハネはペテロと一緒に家を出ましたけれども、ペテロよりも先に墓の様子を知りたいという競争意識が出たのでしょうか、歳をとって足が遅くなっているペテロを置いてきぼりにするようにして走って、自分の方が先に墓に着いたと4節に書かれています。何故このような事まで聖書に書く必要があるのかよく分かりませんけれども、若い頃の自分は、人を出し抜いてでも先に行こうとするような人間であった事を、半分悔い改めるつもりで、ヨハネはこのところを書いたのかもしれません。
ヨハネはペテロよりも先に墓に着きましたけれども、墓の中に入る勇気はなかったようで、恐々と中を覗くだけでした。この事はヨハネ20:4~7に、このように書かれていますが、ちょっと読んでみます。・「二人はいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。20:6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところにまるめてあった。20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」と書かれています。ヨハネは折角ペテロよりも先に墓に着いたのに、中に入るのを躊躇しました。それは、民数記19:11に、「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」とあるからです。これによれば律法は、たとえ神の子であるイエス様の死体であっても、それに触れたら汚れる、と言っているようですが、「神の子なのだから、そんな筈はない。」と思うべきなのか、「律法の言うとおりだ。」と思うべきなのか、ヨハネは一瞬迷ったのではないでしょうか。そのように迷っている間に、遅れて来たペテロも墓に着きましたが、彼は躊躇することなく墓の中に入って行きました。二人の性格の違いが、ここによく現れています。
墓の中に入ってみて改めてわかったことは、マグダラのマリアの言ったとおり、イエス様の体は無くなっており、体に巻いてあった亜麻布と、頭を包んでいた布が残されているだけであったということです。7節に、・「イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」とありますが、後から墓の中に入ったヨハネは、これを見て、イエス様の体は, マグダラのマリアが言ったように盗まれたのではなく、死から甦ったのだと信じました。それは、誰かが盗んで行ったのならば、亜麻布を巻いたままの状態で盗んでいく筈で、わざわざ時間をかけて亜麻布をほどいていく筈がないからでした。聖書によりますと、イエス様の頭を包んでいた布と、体に巻いていた亜麻布は、互いに離れた位置に残されていたとありますが、部屋のあちら側とこちら側ほどに離れて置いてあったのではなく、丁度首の長さ、10センチほどでしょうか、それくらい離れて置いてあったのであろうと思います。それによってわかることは、イエス様は、体に巻かれていた亜麻布を自分でほどいて甦ったのではなく、体が煙のように消えたのであり、そのために、亜麻布は巻かれたままの形で残り、頭を包んでいた布は、少し離れた所に置かれていたのです。古い訳の聖書では、頭も亜麻布で巻かれていたかのように訳されていますけれども、新しい研究の結果、頭は風呂敷のような布で包まれていたのであろうという事になって、私たちが使っている聖書では、この部分をそのように訳しています。
ヨハネとペテロは、イエス様がまだ生きていた時に、「死んでも生きる」と話しておられたことを思い出して、その言葉のとおりに、イエス様は死から甦られたという事を信じましたけれども、甦ったイエス様にお会いすることが出来ないまま、二人は家に帰って行きました。その後に、マグダラのマリアが再び墓にやって来て、空っぽになったイエス様の墓の前で泣いていましたが、ふと墓の中を見ると、御使いが二人、座っているのが見えました。先に帰ったヨハネとペテロには見えなかったのに、マリアには御使いが見えたのです。しかも、そこにイエス様も姿を現して、彼女に声をかけられました。・「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」 と声をかけられました。ヨハネとペテロには、御使いもイエス様も見えなかったのに、マリアには見えたのです。十字架に架かったイエス様は、この時には肉体的には死んでおり、霊的な存在になっていたのですが、元々霊的な存在である御使いも含めて、霊的な存在は、相手に応じて姿を現したり、消したりすることができるのかもしれません。しかし今の時代には、イエス様の姿は誰の目にも見えません。ある人には見えたり、ある人には見えなかったりするような事はありません。それは、今の時代には新約聖書があり、イエス様の教えがそこに全て記されていますから、イエス様のことは、姿を見なくても聖書を通して知ることができます。聖書を読まない人の前に、たとえイエス様が姿を現しても、その人は、それをイエス様だと認める筈がありません。しかしヨハネとペテロの時代には、まだ新約聖書がありませんでしたから、イエス様が死から甦ったことを知らせるためには、実際に姿を現すしかありませんでした。ヨハネとペテロには姿を現わさないで、マリアだけに現わされたのは、イエス様にお会いしたいというマリアの気持ちが、それ程に大きかったという事ではないでしょうか。
17節によれば、イエス様にお会いしたマグダラのマリアは、思わずイエス様にすがりついてしまったようですが、墓の中から煙のように消えてしまったイエス様ですから、いくらすがりつかれても、するりと抜けることができたはずです。しかしマリアの気持ちをよくご存知のイエス様は、そのような無情な事をすることなく、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」とおっしゃいました。人類を亡びから救いに導くという大きな使命を託されてこの世に遣わされて来たイエス様は、全ての使命を果たし終えた今、天に昇って神様に報告しなければならないのです。
このようにしてイエス様は、十字架での死と甦りを通して、神様から託された全ての使命を果たし終え、天に戻られました。後は私たちがイエス様を信じ、聖書に残された教えを守っていくだけです。