マタイの福音書 6章9節~13節

2025年1月19日 勝本正實

 主 題   信じているように生きてみたい
詩篇133篇1~3節  今週の聖句 第2コリント5章7節

命 題     信仰と生活が一致していないのが私たちの現実である。それを悩んでいるか或いは諦めているかで道が分かれる。誠実なキリスト者は信じている事を、現実の生活の中で生かそうと悩みながら努めている。その事の大切さを学ぼう。

序 言 信仰を生活の中で生かす

 知らないうちに、信仰と生活がチグハグになってしまいます。最初は信仰を自分の生活の中で生かそうとしていても、いつの間にかうまくいかなくなります。そして信仰を心の中にとどめ、生活は今までとあまり変わらないものに陥っていきます。そうしたなかで、信仰の喜びも信仰ゆえの戦いもなくなり、表と裏の自分が身についていきます。こうした事を「信仰がマンネリ化した、逆戻りした」と言います。しかし心のどこかではそれを何とかしたいと言う自分のうずきのようなものがあります。今日は「信じているように生きてみたい」と題して、信仰と生活をつなぐ事を学びます。

 

本論1 信仰と生活を分離させる自分自身の理由

 主イエスは弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」と呼ばれる祈りの基本を教えられました。これは私たちが毎日生活していくうえで基本となる事柄でした。祈りの中身はたくさんありますが、基本はこれだと主イエスは教えられたのです。ここには私たちへの勧めと励ましが記されています。主の祈りは、2つの部分で構成されていますので、そのことにもあとで触れます。この祈りを通して、神と私たちが生活の中で繋がるように祈りが組み立てられています。主の祈りのように生きられたら私たちは信仰者として幸せになれます。

しかし残念ながら、私たちは主の祈りのように生きられません。なぜなら信仰を持ちつつも、自分の力で生きていこうとする自分がおり、神さまに委ね従うことを拒否する自分がいるからです。主の祈りは信頼と従順を求めるものです。主の助けを求める事がなければ、この祈りは気休めとなります。欲に振り回されている自分が妨げています。相変わらず自分の力自分の欲に振り回されている自分が信仰をゆがめてしまいます。

 

本論 2 信仰と生活を分離させる世の中の理由

もう一つの妨げは、私たちが暮らしている「世の中」にあります。日本という社会は聖書とかけ離れた社会です。聖書の原理と関係なく動いています。そして私たちはその社会になじんでいます。信仰を生かそうとすれば、支障が出ます。もめ事も起こります。つまり生きにくくなるのです。クリスチャンは少数であり、私たちの社会は異教の社会です。ですから自分が引っ込めばもめごとは起こりません。信仰を個人的な範囲に限定し、社会においては社会のルールに合わせようとします。それが楽です。信仰を前面に出せば、いろいろと支障が起こります。このため神様に我慢して頂いて、人の顔を立ててしまうのです。しかし、それが本当は良くない事は心の奥底で分かっています。このため信仰に確信が持てないのです。

主イエスは、教えてくださった「主の祈り」の中でまず神さまの御心がこの地上で表されるように祈ることを求められました。それが私たちの務めであるからです。その次に私たちの必要の満たしと守りのために祈ることです。なぜなら私たちは弱い存在だからです。

この両方の祈り(霊性と現実性)が私たちの信仰の歩みのために必要です。

 

本論 3 自分を正直に見直そう

神さまのみ心が世において、また私たちの生活において行われるために、出来る事があります。その前提として、自分をごまかさないこと、自分の愚かさ・罪を認めることから始めましょう。

第一に信仰を現実化すること、つまり現実の問題に神様の介入を求めることから始めましょう。このために「祈りとみ言葉」が必要です。具体的な祈りとみ言葉の活用が必要です。

第二に信仰的な考え方を習慣づける事です。つまり「神様は私に何を求めておられるのか」という癖をつける事です。なぜならこれまではいつも自分の事が優先だったからです。

第三に世の中の考えに疑問を持つ事です。自分の考えは世の中で生きていくために身に付けた生きる知恵です。そのおかげで世渡りが出来たのです。しかしそれによって縛られてもきたのです。これからは「本当にそうなのか」と問いかけてみるのです。そうすることで常識に縛られてきた自分が、客観的に見る目を身につけます。

 

本論 4 信じている事を生活に生かす工夫

 少し極端に表現すると、教会やキリスト教の環境にいる時は信仰が働くが、世の中で暮らしている時は信仰が忘れられてしまう、そうしたことが慣れていくことで当たり前になってしまう。普段から私たちは自分を繕って生活しています。家庭での自分、教会での自分、会社や地域での自分、一人になっている時の自分、それぞれに少しずつ違っています。それは自然な事です。これを生まれた時から練習してきたのです。これを器用に演じることで社会から疎外されずに済んだのです。

しかし、信仰生活においてこのことが行われる時、信仰と生活の分離が起こります。別々の自分がいるのです。どちらも本当の自分ですが、偽善的です。そして私たちはそれを心でまずいことだと知っていますが、改める事が容易に出来ません。

 

まとめ 諦めず、しかも目標を持って

まずこれは問題だ、何とかしなければと自覚しましょう。そして変えていきましょう。そして信じているように生活したいと願いましょう。言い訳を減らして、神さまに近づきましょう。神様の助けを頂くことと、自分でなすべき事を自覚しましょう。そこから始める事です。信仰のとおりに生きられるようになりたいと願う心があってこそ、変わっていけるのです。世の中になじみながら、神様にも喜ばれる一見器用な生き方はいずれ崩れていきます。

祈りましょう。

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