2025年2月26日 勝本正實
招きの言葉 詩篇 134篇1~3節 今週の聖句 詩篇119篇71節
主 題 失望と落胆・その後の処理
命 題 私たちの人生に、失望落胆は必ず付きまといます。私たちは夢や希望を持つことで生きがいを得ますが、そこには必ずうまくいかないことが起こります。実現不可能なことを避けようとしていても、失望は避けられません。問題は「なぜと問うこと共に、その後の処理の仕方」で私たちの生き方が分かれていきます。今日は失望・落胆の後の処理の仕方について学びましょう。
序 言 期待のあるところに失望はある
私たちは毎日の生活を、ただなんとなく過ごしているように見えても、何かの目的・目標や願いを持って生活しています。これは本能的とも思えます。「ただなんとなく」ということに不安やあせり覚えてしまうのです。このため「何のために、いつまでに、どんな結果を」と考えながら暮らしています。それが時に励みとなり、効率的であると共に、期待はずれや失望が起こります。この為にやる気がなくなります。悪くすればいつの間にか、無気力になったり、愚痴っぽくなったり、ひがみっぽくなったりします。次第に夢や希望を見なくなります。
つまり、失望や落胆は避けられないのに、その後の処理によって、私たちの生き方が変わってしまいますので、今日は失望の後のことを学びます。
本論1 私たちの期待や夢には保証はない
今日の聖書の個所には、これまでイエスさまに信頼してついてきた人たちが、多く去っていく姿が記録されています。人々はイエスさまに自分の願いや希望・期待を持ってついてきました。しかし、イエスさまの言動がきっかけとなって、多くの方ががっかりして失望し去って行きました。多くの人がイエス様から離れていきました。その時にイエスさまは弟子たちに問いかけられた時のことばが記されています。身近な弟子たちは、踏みとどまりますが、その彼らも十字架の時には一時的に去っていきます。イエスさまご自身も使命を持って私たちのところに来られましたが、しばしば周囲の人間に失望し落胆を経験されました。それでも最後には目的を遂げて役割を終えられました。人間的には失敗と映りましたが、神さまにとってそれも計画のうちでした。
人々がイエスさまのもとを去ったのは、彼らの期待とイエスさまの思いにずれがあったからです。イエスさまは人々が「信仰を求める」より目先の「利益を求めた」ことへの対応として、あえて失望させる道を選ばれました。彼らは、失望とそこからの立ち直りを経験することになりました。
本論 2 失望は自分にも他人にも社会にも神に対しても生じる
私たちはごく自然に、①自分自身に対して願いや目標を持っています。それが張り合いともなれば、時に苦痛にもなります。②こうしたことは周りの人との関係においても、期待や希望を持っています。そのことで喜んだりがっかりしたりもします。私たちは人とのかかわりの中で暮らしているので、それは当然のことです。③これは神さまに対しても向けられることになります。信仰を求め、信仰を持っていることは期待があるからです。しかし、それが願どおりにはならないことが起こります。そうした時に信仰を持ち続けるうえでの迷いや失望が起こります。
本論 3 問題はその後の処理でその後が決まること
期待が裏切られる、希望がかなわない、失敗してしまう、・・・こうしたことは何時でも何度も起こります。さて、こうした時にまずおこることは、やる気をなくすこと、あきらめてしまうこと、誰かの責任にしてしまうこと、・・・その挙句に諦めたり、心を閉ざしたり、努力を止めたりなどして、捨て鉢になってしまうことです。
自分のことなら自分をあきらめ、人のことならつながりを断ち切り、神さまなら信仰を捨てるといったことです。こうすることで、もっと悪いことになってしまいます。私たちはこうした人を周囲に見ることがあります。残念なことです。
ここで大事なことは、あきらめることで、失敗した時よりもっと悪い状態を招いていきます。人生には失敗や挫折はつきものであり、上手くいかないことはしょっちゅうです。イエス様のもとを去った人たちは、再びチャンスをつかむきっかけを得られなくなります。人生は諦めるにはもったいないことです。やり直す中で満足とは言えないまでも、まずまず、まあまあな生き方は見つけられます。失望した時の自分の気持ちの立て直し方が何より大事です。
まとめ 失望は避けられないが、益とすることはできる
聖書が語る私たちの人生の価値や意義は、結果を出す事ではなく、人よりも優れる事でもありません。世の中は「価値ある人生」を歩めと教えますが、聖書は「意味を見出す」人生を勧めます。つまりそれが上手くいったことでも、上手くいかなかったことでも、そこに意味と意義を見つけようとする人生です。競争社会では、勝者と敗者を分けて勝者を誉め(勝者の歴史)ますが、聖書は勝者も敗者も同じ生活者の視点でとらえます。成功者は彼の役割であり、功績ではありません。主イエスが語られた「タラントの譬え」で示されているように、才能と健康と富と環境に恵まれた人は、その結果を残すことは当然のことです。例えの中で、5タラントの人も2タラントの人も、その結果に応じて同じ労いの言葉を受けています。このように「勝者として何をなしたのか」と問われます。敗者や苦労人は、「そんな状況で何をなしたのか」が問われます。失敗・失望は苦痛と後悔を伴いますが、そこから何を学び人生に活かしたかが問われます。つまり本当に大切なことは、上手くいった後、また上手くいかなかった後をどうしたかということです。人生の成功失敗は目的でなく、状況であり、その後がどうなったかが本当は一番大事だということです。 祈りましょう。