2025年4月20日 勝本正實
詩篇139篇1~10節 今週の聖句 ルカの福音書24章6節
主 題 「聖書が語る、よみがえりとは何か」
命 題 主イエスの死からのよみがえりを、感謝するイースター礼拝のひと時です。2000年前のこの出来事は、いつか必ず死を迎える私たちにとって大きな希望です。そして生きる励ましです。主イエスが語られた、たとえ話においても、復活のことが語られていますので、今日はこのたとえを取り上げます。主は復活をどのように語っておられるのか、現実主義であった信仰者サドカイ派に、復活を事実として説明された主の例えから学び、その後起こった主の十字架と復活の出来事の真実に注目します。
序 言 信仰者であっても復活を信じない人々
神を信じる人であっても、来世や復活は信じない方がおられます。その方たちにとって、信仰はこの地上に限定される範囲の問題です。現実に普通では起こりえないことを信じることは、常識が許さないことなのでしょう。日本の教会にも、復活や来世を信じない方がおられます。その方たちにとって復活は、心の中の精神的・内面的な出来事として捉えます。
サドカイ派と呼ばれる人々は、創世記から申命記までの律法の書を信じる人たちでした。彼らは現実を重視し、イスラエルにおいて親ローマ帝国の人たちであり、経済的には恵まれた立場にありました。パリサイ派の人たちは、反ローマ帝国であり、復活を信じていましたので、この事ではサドカイ派の人ともめていました。サドカイ派の人たちは、主イエスが復活や来世を語られるのを知って、主イエスを困らせるために、1人の妻と7人の夫のたとえを用いて、主を苦しめ人々の信頼を失わせようとしました。このことから主の教えを学びましょう。
本論1 サドカイ派が復活を否定する根拠
イスラエルの人たちも一族や家族のきずなを大切にしました。家を継続させることは、大事な家族の使命でした。このために、男の兄弟が結婚により子供を残せないことがないようにと、兄が早死にした場合には、弟が兄嫁と結婚して子供を産み、兄の家を継がせることを律法として守りました。(申命記25:5~6参照)一人の妻と結婚した7人の兄弟という現実離れしたたとえは、この律法を背景としています。サドカイ派はこの実例を取り上げて、来世の存在を、理屈に合わないとして否定しようとしました。
これに対して、主イエスは彼らのたとえ話の弱点を指摘されます。このたとえの一番大きな問題は、来世は「この地上と異なる生活がある」ということを知らないことです。日本ではこの世とあの世はつながっていると考えますが、サドカイ派もまた同じような印象を持っていたようです。主イエスは、来世はこの地上とは違う生活が備えられていることを語られます。来世においては、結婚という命をつなぐ・家をつなぐ制度は必要がないことを語られます。永遠の世界においては、子供を産み育てる必要はなく、すべての人は家族としてつながることを語られました。
本論 2 主は復活をどのように語られたか
主イエスが語られる来世は、この地上とは異なる世界があるということです。想像がつきません。聖書の中にも来世のことが個別に詳しく書いてはありません。ただ、聖書が教えてくれるのは、この地上に住む私たちが亡くなったと思っている人たちは、み国において新しい命に暮らしておられるということです。この地上では存在しなくなっても、神の国においては、日々生きて生活しておられるということです。神がモーセに語られた、「アブラハム・イサク・ヤコブ」といった過去の人も、同時間において神の国においては、今現在も生きているという事実です。そのことを信じられるかと問いかけられます。死んだ人・生きている人といった区別は、この地上のみで通用することであり、神の国は同時進行の別の世界であると語られます。神が時代を超えて存在されるように、神の国に入れられた人も時間を超えています。
本論 3 十字架の備えとなった問答
この会話の出来事は、やがて主イエスの十字架と復活の備えを整えるきっかけとなります。なぜなら、復活によって永遠の世界の実在を、サドカイ派やパリサイ派の人に広く知らしめることになったからです。「死んだ人が復活する」、普段ならあり得ないことが起こった、そこに永遠の世界が存在することを知らせることになりました。私たちの見える世界とともに、見えない世界が存在することを、主イエスの復活は私たちに教え、「信じるか」と問いかけてくれます。あなたは、目に見える世界が存在するように、目に見えない世界も存在することを信じられますか。目に見えない世界が、今の世と同時進行的に存在するということが、復活の大きなメッセージです。主イエスの弟子たちも最初は、復活を信じることが出来ませんでした。ですから十字架から3日後(つまり日曜の朝)に、埋葬された墓に行くことをしませんでした。復活された主がご自分の体を見せて、一緒に食事をされてはじめて、復活の事実を少しずつ理解しました。これが現実でした。復活を信じることは、私たちの常識範囲ではなく、神さまが信じさせてくださる神のわざなのです。
まとめ 復活を事実として信じる
キリスト教において、よみがえり・復活は大切な信仰の根幹です。おぼろげな希望としてではなく、確かに存在し、私たちも受け入れられる世界としての「神の御国」とそこでの生活を主イエスの中に確認するのが、イースターの出来事です。十字架の身代わりの赦しと、それを証明する復活(永遠のいのち)が無かったならば、キリスト教は続かなかったでしょうし、多くの人を信仰に導くこともできなかったでしょう。復活の出来事は、今のいのちを生きる私たちの支えであり、希望であり、安心なのです。
祈りましょう。