2025年6月22日 勝本正實
招きの言葉 詩篇142篇1~7節
今週の聖句 ルカの福音書12章34節
主 題 「「心を天に向けて」」
命 題 私たちの普段の暮らしと信仰の目指すところの間には、食い違いがあります。普段の暮らしはこの地上のことであり自分のこと、信仰が目指すところは神のみ国であり神と共に生きることです。私たちはこの地上のことに信仰を用いようとしますが、神は私たちの必要に応えつつ、天に思いを向けさせようとされます。この葛藤・ギャップをどのように乗り越えるかを学びます。
序 言 あわただしく過ぎていく暮らしの中で
過ぎ去った一週間を振り返ってみましょう。心に思い浮かぶのは、自分のことであり、自分と関わった人のことです。その中で心配したこと、いやだったこと、嬉しかったことなどが中心に思い浮かびます。そうしたことの中で、神さまや信仰の部分がどのくらいあったでしょう。いくつも思い浮かぶなら、神さまとのつながり・連携がうまくいったと言えるでしょう。しかし、あまり思い浮かばなければこの地上のことで精いっぱい・アップアップだったということです。このことが今日の課題です。
本論1 過ごしてきた時間が私たちの人生
私たちの人生は、それぞれ長さにおいて、内容において、皆それぞれ違います。しかしいずれ終わることは同じです。人生は毎日の時間の積み重ねによってできています。その時間をどう過ごし、何を考えてきたかが、自分でも大切になるし、人からも評価されます。それが全てならば、私たちは自分の願いを出来るだけ実現し、他の人ともうまく関わることに集中すればよいでしょう。
しかし、私たちはそれだけではなく、神という方と自分の関係を良くすることを信仰によって教えられます。なのに神さまとの事がなぜか後回しになります。なぜでしょう。神さまは見えないし、文句も言われないし、威圧的でもなく、ちょうど空気のような存在だからです。しかし、この方が私たちの人生の決定権を持っておられます。信仰はこのことの大切さを教えます。
本論 2 信仰の先輩たちのお手本とは
今日の聖書個所であるヘブル書11章には、聖書にしるされた信仰の先輩の方たちのその人生の歩みが紹介されています。それぞれの人生は違っているものの、共通した部分は、彼らが神を見上げて生きようとしたということです。この地上で、富と力も手にした人もいれば、この地上では不遇だった人もいます。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、サラなどが例として挙げられています。見てみましょう。彼らは、それぞれに違った生き方をしました。
しかし共通しているのは、彼らが信じている神と共に生きようとしたことです。そしてこの地上では、神の約束のものを手に入れていなかったということです。神さまは私たちの人生をこの地上で完結させることを考えておられません。この地上の生活は、「旅人」の生活であって、そこには長く留まらず過ぎ去る者であると教えられます。しかし、私たちにとってこの地上の生活はロトの夫妻のように愛着・執着のかたまりです。だからこそこの地上の生活の為に、いただいた信仰をも利用します。
本論 3 信仰は天に心を向けさせる
信仰の働きは、私たちの思いと生活を、天的なことに向けさせることです。ここに信仰の葛藤が生まれます。私たちは信仰を自分の地上での生活に利用しようとし、神さまは私たちの思いを、信仰を用いて天に向けさせようとされます。もし、心を天に向けないなら、私たちはこの地上で全てが終わります。そして神さまのことも分からないままになるでしょう。
そうなると信仰は私たちの欲を満たす道具にすぎなくなります。神さまはこれを防ぐために、私たちの心に問いかけて、見える世界の見えないことに注意を向けられます。信仰の働きは、見えないものに目と心を向けさせることです。これはキリスト教に限らず、信仰の働きです。日本に古くからある神道もこのことを教え続けてきました。しかし物が豊かになるに従い、人の心は物欲にとらわれていきました。物が豊かになるにつれて、霊的なことは忘れられます。残念なことに。
人間は物質としての肉体と共に、魂の臨在する霊的な存在であることをいつの間にか見失います。それは人間が普通の動物になってしまうということです。
まとめ 地上の事は最終目的地ではない
私たちの目と耳と思いは地上に向けられますが、神さまは与えられた信仰を働かせて、私たちを天に思いを向けさせようとされます。私たちの世界が見えるものだけで存在しているのではなく、見えないものによっても存在している事を教えようとされます。どちらに関心を持つかは、私たちのこの地上における権利であり、同時に責任です。ここに私たちの自由と責任が委ねられています。見えるものにだけ心を向けるか、見える物の背後に見えない力を感じながら生活するか、それは私たちの選択です。思いを天に向けること、見えるものの背後に見えない方のはたらきがあり、存在があることを自覚できるかが問われています。信仰は、神に約束されたことを保証し、眼に見えないことを「確かなこととして」確信させてくれるものです。これは信仰者の特権です。今の時代は、見えるものや物的なものにひかれますので、この地上での人生の完結・目標の実現に執着します。死後のことは関心が薄いことです。「生きているうちに」やりたいことをするために、エネルギーを注ぎます。しかし、寿命が尽きればそこで諦めるだけです。しかし、聖書は人生がこの地上で終わらず、来世でも続くことやそのためには準備が必要であることを教えます。この地上での始まり・誕生は選べませんでしたが、来世での新生活は私たち自身が選択できます。このことを証しするのが、教会と私たちの使命・メッセージです。
祈りましょう。