大祭司の祈り
2024.4.21 鳥居光芳
春の到来を最もよく実感させてくれるものは、人によって違うかもしれませんけれども、多くの人にとっては、桜と鶯ではないでしょうか。自分の持てる力を全て出し切るまでに咲き誇っているように見える桜も、力いっぱいにさえずっているように見える鶯も、いかにも春が来たことを告げてくれます。それに今年はこの会堂もリニューアルされますから、会堂からも春の訪れを告げられることでしょう。会堂がリニューアルされるのですから、そこで礼拝している私達も、それに負けないように自分自身の信仰を新しくしていかなければなりません。
「新しいブドウ酒は、新しい皮袋に入れよ」と聖書に書かれていますけれども、新しいブドウ酒を古い革袋に入れますと、ブドウが発酵する際に、弱くなっている皮袋を引き裂いてしまう惧れがあるからのようです。しかし皮袋だけを新しくしても、そこに古いブドウ酒を入れたのでは、皮袋を新しくした意味がありません。会堂が新しくされた今、そこで礼拝する私達も新しくされなければなりません。
イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)とおっしゃいました。今ここにおいでになっている方々も、またZOOMで繋がっている方々も、全員が洗礼を受けていますから、既に新しく生まれ変わっているのですけれども、会堂が新しくされるこの機会に、もう一歩前進して、更に完全に新しくされたいと願います。私達は洗礼を受けた時に、心の中に聖霊を受け入れて新しくされました。しかし多くの場合、心の中の一隅に受け入れただけで、心の隅から隅まで聖霊に満たされたわけではないであろうと思います。聖霊を受け入れて新しくされたとは言いながら、心の中にはまだまだ多くの罪の思いが残っていますから、たとえ洗礼を受けたと言っても、まだ残っている罪の思いが再び動き出して、神の御心を悲しませたりすることがあります。
そのような事をなくすためには、心の片隅だけに聖霊を受け入れるのではなく、心の中全体に受け入れて、聖霊が満ち満ちている状態にしておかなければなりません。それは、ガラテヤ2:20に書かれているような状態です。そこにはこの様に書かれています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と書かれています。これは、聖霊としてのキリストが心の中に充満して、罪の思いを完全に外に押し出してしまっている状態です。このようになれば、私達の心の中では聖霊が自由に働いて、私達が考える事、行う事は全て、神様の御心に適うようになります。論語に、「70にして、己の欲するところに従えども矩を超えず。」という言葉がありますけれども、人生70才にもなれば、自分の好きなように振る舞っても、規則に触れるような事はなくなるものだという意味で使われます。しかし聖書は、このような消極的な言い方ではなく、たとえ人生70才になっていなくても、心に聖霊が満ち溢れていれば、「矩を超えず」ではなく、積極的に神様を喜ばせることが出来るものだと言っています。
しかしそうは言っても、そう言っている私がそのようになっているのではない事は、皆様から見ても明らかで、私はそのようになる事を一生懸命に目指しているに過ぎません。しかし、いくら一生懸命に目指していても、自分の力や努力だけでそのようになれるわけではありません。そのようになるためには、心の中にいつも聖霊を満たしていることが必要です。
では、どうしたらいつも聖霊を満たしていることが出来るのかということになりますけれども、それは毎日デボーションを積み重ねていく以外には無いのではないでしょうか。デボーションというのは献身という意味ですけれども、普通は、毎日聖書を読んで、祈り、神様と交わりを持つという意味で使われています。毎日デボーションを続けることによって心は聖霊に満たされ、私たち自身が変わっていくことは勿論のこと、この教会全体も変わっていくであろうと思います。それこそ、新しい皮袋に新しいブドウ酒を入れたことになります。
今日取り上げる聖書の個所は、ヨハネ福音書第17章の全体ですけれども、長くなりますから、先ほどは1~5節を読んで頂きました。このヨハネ福音書第17章は、「大祭司の祈り」と言われていまして、大祭司であるイエス様がなさった祈りが書かれています。イエス様は何事につけてもよく祈られた方で、マルコ福音書には、「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)と書かれています。しかし聖書には、イエス様がなさった祈りの内容そのものについてはあまり書かれておらず、内容まで書かれているのは、主の祈りと、ゲッセマネの祈りと、この大祭司の祈りくらいでしょうか。
この大祭司の祈りは三つの部分から成っていて、第1の部分は、先ほど読んで頂きました1~5節で、イエス様が十字架に架かって死ぬことによって、父なる神様と子なるイエス様の栄光が現れる事を求めている部分です。第2の部分は6~19節で、イエス様の弟子たちの為の執り成しの祈りです。そして第3の部分は20~26節で、イエス様の弟子たちだけでなく、弟子達を通して救われた人々をも含めた人々の為の執り成しの祈りで、今生きている私達もそこに含まれています。
イエス様は、旧約聖書に出てくる「王」と「預言者」と「祭司」の三つの職務を兼ねた方であると言われますけれども、三つの職務の中で祭司は、神様に対して犠牲を献げ、人々の為に執り成しをする役を担っています。この祭司は、モーセの兄であるアロンの家系の者によって世襲的に引き継がれましたけれども、その中で、アロンの三男であるエルアザルの家系の長男が大祭司の役を担いました。大祭司の役目は、祭司を始めとして神に仕えている人々を統率管理することですけれども、特に大祭司にしか出来ない役目として、1年に1度神殿の至聖所に入って、そこに置いてある契約の箱に贖いの血を注ぐことでした。この贖いの血は、後に大祭司であるイエス様が十字架に架かることによって流される血を予告するものでした。
ヨハネ17:1に、・「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」とありますが、これが大祭司の祈りの初めの言葉です。現在私達が祈る時は、目を閉じてややうつむくのが普通ですけれども、当時は、目を開いたまま天に向かって語りかけるのが、祈りの一般的なスタイルであったそうです。初めにある「これらのことを話してから、」というのは、以前にイエス様が、「自分は間もなく十字架に架けられて、死ななければならない。」と語られた事を指しています。「父よ。時が来ました。」というのは、いよいよ十字架に架かる時が来ましたという事ですが、イエス様が十字架に架かる時は、父なる神様が栄光を現す時でした。何故ならば、神様がイエス様をこの世に送って十字架に架ける事は、神様の初めからの御計画でしたから、イエス様が十字架に架かる時は、神の計画が成就する栄光の時だったのです。それはとりも直さず、神様の御計画に素直に従ったイエス様の栄光の時でもありました。
十字架の死がイエス様の栄光の時であることは、4節に、・「わたしが行なうようにと、あなたが与えて下さったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現わしました。」とあるとうりですが、ここで、「わたし」というのはイエス様、「あなた」というのは父なる神様のことで、イエス様が十字架に架かることは、神様によって前もって計画されていた事であったということが、ここで言われています。しかしイエス様がこのようにおっしゃった時点では、イエス様はまだ十字架に架かってはいませんでしたけれども、それにもかかわらず、「わたしは地上であなたの栄光を現わしました。」と過去形で語られたのは聖書特有の表現であって、やがて十字架に架かることが絶対確実で、もはや十字架に架かったも同然であるからです。
このように、イエス様が十字架に架かることは神様の御計画による事でしたが、ご計画に従ったイエス様には、一つの権威が与えられました。その権威とは、2節に・「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。」とありますように、全ての人を支配する権威です。全ての人を支配酢する権威とは、全ての人間を自分の思うままに動かすという権威ではなく、2節の後半に書かれていますように、神様からイエス様に委ねられた全ての人に、永遠の命を与えることの出来る権威です。この永遠の命について、3節にこのように書かれています。・「その永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と書かれています。これによりますと、永遠の命とは、父なる神と子なるイエス・キリストを知ることである、ということになります。これを少し言い換えますと、永遠の命を受けるためには、父なる神と子なるイエス・キリストを信じることが必要である、という事です。しかし、イエス様が十字架に架かって下さったので、全ての罪が処理されて永遠の命が与えられるとは言っても、全ての人の罪が赦されたわけではありません。赦されたのは、父なる神と子なるイエス・キリストを信じている人の罪だけです。ローマ2:16にも、「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と書かれているとおり、信仰を持っている人だけが義と認められ、罪を赦していただけるのです。この様に大祭司の祈りの第1の部分、即ち1~5節は、イエス様が十字架に架かることが、父なる神様と子なるイエス様の双方にとって栄光となることを願い求めている部分です。
6~19節は、弟子たちのためにイエス様がなさった執り成しの祈りの部分です。6節に、・「あなたが世から選び出して与えて下さった人たちに、わたしはあなたの御名を現わしました。」とありますが、「あなたが世から選び出して与えて下さった人たち」というのは、イエス様の弟子たちのことです。イエス様の12弟子たちのある人は、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様から声をかけられ、別の人はまた別の言葉をかけられて、夫々の呼びかけに応えて彼らは弟子となったのですから、イエス様が彼らを選んで弟子にしたと言えない事もないかもしれません。しかし、町の中で弟子たちがイエス様に出遭うようにされたのは神様ですから、神様がこの世から弟子たちを選び出して自分に与えて下さったのだと、イエス様は遜って言っています。また「わたしはあなたの御名を現わしました。」というのは、神様が選んで与えて下さった弟子たちに対して、父なる神様がどのような方であるのか、その本質をイエス様が懇ろに伝えられた事を言っています。イエス様は約3年の公生涯の間に、神の一切合切について、余すところなく弟子たちに伝えられました。
そのイエス様は間もなく十字架に架かってこの世から居なくなろうとしておられますが、居なくなるにあたって、弟子たちのために執り成しをされました。執り成しの一つは11節で、このように書かれています。即ち、・「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さった聖なる御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」と書かれています。これは、イエス様が十字架に架かってこの世に居なくなった後も、弟子達がバラバラに散ってしまうことがないように、彼らを一つに守って下さいという願いです。イエス様がこの世から居なくなった後、弟子たちだけで御言葉を宣べ伝えていこうとすれば、必ず悪魔が抵抗します。その結果、弟子たちは散り散りバラバラにされて、伝道の働きはそこで終わってしまう惧れがあります。そうしますと、イエス様の贖いの死によってこの世を罪から救おうとする神様の計画は破綻してしまい、神様が悪魔に負けてしまったことになります。そのような事にならないように、弟子たちの心を一つに守って下さいというのが、弟子たちに対するイエス様の執り成しの祈りの第1でした。
執り成しの第2は15節で、このように書かれています。・「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」と書かれています。これは、イエス様が十字架に架かって天に戻られる時に、弟子たちを一緒に連れて行くのではなく、弟子たちはこの世に残しておいて下さいという願いです。イエス様がこの世に居なくなった後も、御言葉を世界中に述べ伝えていくためには、弟子たちの働きが必要です。しかし御言葉を宣べ伝えていこうとすれば、この世から多くの迫害を受けることは確かです。イエス様がこの世に居られた時には、その迫害はイエス様に向けられていましたけれども、イエス様が居なくなった後は、全て弟子たちに向けられるようになります。弟子たちがそのような迫害を受ける事のないようにするためには、イエス様が天に戻られる時に、弟子たちも一緒に連れて行ってしまうのが良いのかもしれませんけれども、それでは、世界中に御言葉を宣べ伝えることによって、全世界の人々を罪から救おうとする神様の御計画が達成されないことになってしまいます。また、弟子たちが迫害に遭うことのないように彼らを守ることは、必ずしも神様の御心ではありませんでした。それよりもむしろ、迫害に負けないような強い信仰を弟子たちが持つことを、神様は望んでおられました。それは、ヘブル12:5,6にこのようにあるとおりです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」とあるとおりです。迫害も主の鍛錬と考えれば、信仰の成長に役に立つのです。
イエス様は、ご自分の弟子たちの為に執り成しの祈りを捧げられただけでなく、御自分の弟子たちを通して将来数いに与る人々の為にも祈りを捧げられました。それは20節に、・「わたしは、ただこの人々の為だけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々為にも、お願いします。」と書かれているとおりです。また24節に、このようにあります。「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。・・・」とあります。ここに、「彼ら」というのは、イエス様の直接の弟子たちと、その弟子たちを通して救われた人々(その中には、現在生きている私たちも含まれていますが)、その両方を含んでいると考えてよいであろうと思いますが、父なる神様と子なるイエス様を信じた人々を神の国に入れていただいて、彼らがイエス様と一緒に居られるようにして下さい、と願っています。
イエス様はこの大祭司の祈りを、26節の言葉で締めくくっておられます。そこには、このように書かれています。・「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」と書かれています。イエス様はご自分の弟子たちに対しては直接、また弟子たちを通して信仰を持つに至った人たちに対しては聖霊を通して、父なる神様の本質を伝えられましたし、今も伝えておられます。それは、神様の愛が彼らの心に届くようになるためであり、またイエス様が聖霊の形で彼らの心の中に宿るためでした。このように十字架の死を間近にして、イエス様がご自分の為に、また弟子達の為に祈られたのは、神様の愛と聖霊が私達の心に満ち溢れるようになる為であったということを覚えていたいと思います。