ヨハネ18:12~40 あなたは王なのか

2024.6.16 鳥居光芳


「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」とは、高校生の時に習った「奥の細道」の冒頭の一節ですけれども、「月日は永遠の旅人のようであって、来ては過ぎ去ってゆくこの年もまた、旅人のようなものである。」というような意味だそうです。月日は誰の上にも平等にやって来ては、平等に過ぎ去って行きますけれども、内容の濃さは人によって全く違いますし、同じ人であっても、内容の濃い一日と、そうでない日とがあります。
イエス様がこの世で過ごされた最後の一日は、非常に内容の濃い一日でした。それは過ぎ越しの祭りの時でしたけれども、その時に弟子たちと一緒に食べた食事が最後の晩餐となりました。その席でイエス様は上着を脱ぎ、たらいに水をはって、一人ひとり弟子たちの足をお洗いになりました。誰かの足を洗うということは、当時は奴隷の仕事とされていたそうですけれども、イエス様は弟子たち一人一人の足を洗うことによって、互いに仕え合うことの大切さをお教えになったのです。この世で過ごす最後の日になっても、互いに仕え合うという社会生活の基本に近いような事を教えなければならなかったイエス様がお気の毒ですけれども、自分が居なくなった後の日々について、決して絶望していたわけではないであろうと思います。この時イエス様は、ご自分が十字架に架かって天に上げられたならば、その後に聖霊が下されて来ることをご存知でした。今は未だ頼りない弟子たちですけれども、彼らが聖霊を受けてそれに満たされた時には、ある者は喜び勇んで世界宣教に出て行く者となり、ある者は、迫害を受けている多くの仲間たちを励ましながら、共に十字架に架かって天に凱旋していく強い弟子たちになるであろう事をご存知でした。
その最後の一日を、祈りをもって締めくくるために、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネの園に行かれましたが、そこにイスカリオテのユダが、ローマ軍の兵士たちと、祭司長やパリサイ人達から送られた役人達を案内してやって来ました。この兵士たちは、千人隊長に率いられた600人から成るローマ軍の正式部隊で、イエス様を捕えるためには、それほど多くの兵士たちの力を借りる必要があると、祭司長たちは思っていたのです。それほど彼らはイエス様の力を恐れていたのですけれども、イエス様は全く抵抗することなく、簡単に捕らえられてしまいました。イエス様は、ご自分が捕らえられて十字架に架けられることは、旧約時代からの定めである事をご存知でした。ヨハネ3:14で、イエス様はこのようにおっしゃっています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」とおっしゃっています。ここで、「モーセが荒野で蛇を上げたように」とは、イスラエルの人々がモーセに率いられて荒野を旅していた時、貧しい食事と水に音を上げた人々が、モーセに詰め寄った時の出来事を指しています。民数記21章によれば、その時人々は、このように言ってモーセ達リーダーに迫りました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言って、彼らはモーセ達を非難しました、そのような民たちの声を聞いたのはモーセ達リーダーだけでなく、天において神様も聞いておられました。民たちがこぼす不平不満の声を聞いた神様は怒りを発し、彼らの中に燃える蛇を送り込んだので、多くの人々がその蛇に噛まれて死んでしまったという事が民数記21章に書かれています。燃える蛇というのは毒蛇のことですけれども、そ毒蛇から人々が守られるように、モーセは民のために執り成しの祈りを捧げました。それに対して神様は、このようにおっしゃいました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」とおっしゃいました。モーセは言われたとおりに青銅で毒蛇の形を造り、それを旗竿の先に付けました。すると人々が毒蛇に噛まれても、その人が旗竿に掲げられた蛇を見上げると、その人は死ぬことがなく、生きることが出来たということです。この話は、イエス様の十字架を予告しています。罪を犯したために死ななければならない私達が、十字架の上に上げられたイエス様を信じて仰ぎ見る時、その罪は赦されて生きることが出来るのです。
ですからイエス様は、毒蛇が旗竿の上に上げられたように、地上に上げられて死ななければなりませんでした。地上に上げられて死ぬという事は、数センチでも、数十センチでもよいですから、地表よりも高く上げられて死ぬということです。そのためには、イスラエルに伝統的な石打によって殺されてはなりません。十字架に架けられ、地表よりも高く上げられて死ななければなりませんでした。十字架刑は、当時のローマ帝国の最も重い重罪人に対して行われていた死刑の手段だったそうですから、イエス様を十字架に架けるには、イエス様をローマ人に捕らえさせ、ローマ人によって処刑されるように仕向けなければなりませんでした。
更にユダヤ人である祭司長たちの側にも、イエス様を石打ではなく、十字架に架けて処刑しなければならない理由がありました。それは申命記21:23に、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」とありますように、木に架けられて死んだ者は、神に呪われた証拠であると思われていましたから、祭司長たちとしては、イエス様を石打にするよりも、木の十字架に架けて殺したかったのです。そうすれば、「イエスは神の子なんかではなく、神に呪われた人間であることがはっきりした。」と国中に言いふらすことが出来ます。このように、「イエスは神に呪われて十字架に架けられたのだ。」と祭司長たちは思いたかったのですけれども、祭司長たちがそのように思いたかっただけでなく、神様ご自身も、確かにイエス様を呪ったのです。それは、イエス様が全人類の罪を引き受けて御自分が罪人となったために、神様はイエス様を罪人として呪い、十字架に架けられたのです。
このように、祭司長の立場からしても、神様の立場からしても、イエス様は十字架に架けられて死ななければなりませんでした。ですからヨハネ福音書18:31にありますように、ロ-マ軍のユダヤ総督であるピラトがイエス様を指して、・「お前たちがこの者を引き取り、自分達の律法に従って裁くがよい。」と言った時、祭司長達は、・「私達は誰も死刑にすることが許されていません。」と言って、何とかローマ軍の手によってイエス様を十字架に架けようとしました。・「私達は誰も死刑にすることが許されていません。」と聖書に書かれている事から、ローマ帝国に支配されていた当時のユダヤには、犯罪人を死刑にすることが許されていなかったと言う人もいますけれども、新約聖書の「使徒の働き」の中に、ユダヤ人たちが、信仰の人ステパノを石打で殺してしまった事が記されていますから、ユダヤ人が犯罪人を石打で殺すことはあったのではないかと思います。しかし、十字架に架けて処刑する事は許されていなかったのでしょう。
ユダに案内されてやって来た一隊は、イエス様を捕えてアンナスの所へ連れて行ったと、ヨハネ18:13に書かれています。彼はその時には大祭司ではありませんでしたから、イエス様を裁く資格は無かったと思いますけれども、この時の大祭司であるカヤパのしゅうとして、また前の大祭司として、個人的な興味から、有名なイエスという人間を見てみたかったのかもしれません。19節に、・「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。」とありますが、一通り尋問して個人的な興味を満足させたのでしょうか、その後24節に書かれていますように、彼はイエス様を大祭司カヤパの所に送りました。
ヨハネ福音書では、このように、アンナスからカヤパという順序でイエス様は取り調べを受けた事になっていますけれども、これに対してマタイ福音書26:57には、「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。」とありますように、イエス様を直接カヤパの所に連れて行っており、イエス様は初めにカヤパから尋問を受けたことになっています。聖書は誤りなき神の言葉であると言われていますけれども、アンナスが先か、カヤパが先かという違いを取り上げると、「マタイ福音書とヨハネ福音書のどちらかが正しくて、どちらかが間違っているではないか。」ということになってしまうかもしれません。しかし聖書は私達の信仰と生活の規範であって、同じ出来事であっても、どこに強調点を置くかは聖書を書いた人の立場によって違ってきますから、細かい点に違いがあるのは当然であって、信仰と直接関係のない些細な処にまで目くじらを立てて聖書を読んでいると、間違った信仰に引き込まれてしまうかもしれません。なお、マルコ福音書とルカ福音書には、「イエスを大祭司のところに連れて行った。」と書いてあるだけで、アンナスの所とも、カヤパの所とも書いてありません。
イエス様が尋問を受けている時、大祭司の庭の中に入ったペテロは、イエス様のことを「知らない」と3度否定するのですけれども、そこはアンナスの庭の中であったのか、それともカヤパの庭であったのかと考え込む人もいるようです。そのような論争を解決するために、ある人は、「アンナスとカヤパは義理の親子関係にあったのだから、同じ一つの庭の中に二人の家があったのではないか。」と言う人もいます。
ヨハネ福音書によれば、イエス様は初めにアンナスから尋問を受けて、その後カヤパの所に廻されたようですけれども、カヤパがどのような尋問をしたのかについては全く書かれておらず、18:28にあるように、カヤパはすぐにイエス様をローマ総督ピラトの所に送っています。これに対してマタイ福音書では、大祭司カヤパはイエス様に対して、細かく尋問しています。「お前は、本当に神の子キリストなのか?」という質問もその一つですが、これは、大祭司として一番気にかかる事でした。これに対してイエス様は、「あなたが言ったとおりである。」と答えていますが、それが、「イエスは自分を神の子と認めて、唯一の神を冒涜した。」ということになり、イエス様を死刑にすることがこの時に決定されました。後は、石打によって殺すのではなく、十字架に架けて殺すだけです。そこでカヤパはすぐに、イエス様をローマ総督ピラトの下に送りました。
しかしピラトとしては、「自分の役目は、ユダヤ人達にローマの法律を守らせることであって、ユダヤ人同士の宗教的な争いには関わりたくない。」と思っていました。そこで18:31節にあるように、・「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言って、訴えを却下しようとしました。しかし、何としてもイエスを十字架に架けたい大祭司たちと、彼らに扇動されたユダヤの民衆は、・「私たちは誰も死刑にすることが許されていません。」と言って、引き下がろうとしませんでした。そこでピラトも仕方なく、イエス様に何度か尋問しましたけれども、どうしても罪を見出すことは出来なかったために、イエス様を釈放しようとしました。ヨハネ福音書19:12に、このように書かれています。・「ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルにそむいています。」」と書かれています。そして更に19章15節によれば、祭司長たちは、・「カエサルのほかには、私達には王はありません。」とまで言っています。ここまで言われてもなおイエスを庇っていると、祭司長達はピラトまでも、ローマ皇帝に対する反逆罪で訴えるかもしれません。しかし、本当にイエス様が、「自分はユダヤ人の王である。」と言ったとしても、宗教的な意味でそのように言ったのであれば,ピラトとしては放っておくことが出来ます。しかし、現実のこの世に於ける王であるとイエス様が言ったのであるならば、それはローマ皇帝に対する反逆罪となりますから、ピラトとしては放っておくことは出来ません。
イエス様は、「あなたはユダヤ人の王なのか。」と聞かれても、「ユダヤ人の王」という言葉の意味をピラトがどのように捉えているのかわからないうちは、答えようがありません。そこでイエス様は、その言葉の意味をはっきりさせるために、36節で、「わたしの国はこの世のものではありません。」と言っています。「自分はこの世を支配する王ではなく、霊的な意味での王である。」とイエス様は言われた事になります。これでピラトにはイエス様の心が分かったのでしょう。37節で、・「それでは、あなたは王なのか。」と、駄目押しをするように聞いていますけれども、これは、「霊的な意味での王なのだな。」と確認しているのであろうと思います。
これでイエス様にはローマ皇帝に対する反逆の気持ちなどは全くないことが分かり、ピラトは安心しましたけれども、ユダヤ人たちは、益々激高しました。彼らは、イエス様がこの世の王として立ち上がり、ユダヤの国をローマの支配から解放してくれることを望んでいたのです。しかし今イエス様が、ご自分を「霊的な意味での王」であることをはっきりさせたので、自分たちの期待が完全に裏切られたことを知って、「イエスを十字架につけよ。十字架につけよ。」と叫ぶまでになっていったのです。
私たちはどうでしょうか。イエス様を王と認めているでしょうか。認めているとしても、この世の王として認めているのでしょうか。それとも、霊的な意味での王と認めているのでしょうか。「この世の王」というのは、「この世を支配する者」(ヨハネ12:31)という意味で、聖書ではサタンのことを言っています。ですから私達は、イエス様をこの世の王ではなく、霊的な意味での王と認めているのですけれども、しかし実際はイエス様がこの世の王であるかのように、「これをして下さい。あれをして下さい。」と、この世の事ばかりを注文しているのではないでしょうか。勿論そのような事を祈ってもいいですし、祈るべきなのですけれども、ゲッセマネの園でイエス様が祈られたように、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」という思いを忘れてはなりません。そうしないと、イエス様をこの世の王としてしまう事になります。私達が祈っても、祈ったとおりにならない事が沢山あるかもしれません。だからと言って、イエス様を否定したり、神様を否定したりするのは大きな間違いです。祈ったとおりにならないことがあるにしても、祈る前からイエス様が先回りをして、私たちを守って下さっている事の方が遥かに多いのです。そうでなければ、私達はとっくの昔に亡びてしまっているであろうと思います。私達は、王であるイエス様に守られていることを心から感謝しましょう。

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