2024年 1月7日 勝本正實
主 題 「祈りに失望しないために」
招きの言葉 詩篇116篇1~7節 今週の聖句 ピリピ書4章6節
命 題 祈りはどの宗教にも共通する、信仰の不可欠な要素です。祈りは、神仏への語り掛けであり、神仏の応えを知る大切な方法です。聖書の神に祈ることによって、私たちは自分を超えた存在と交わり、私たちを霊的なことへと導きます。しかし、祈りは時に道具となり、都合で捨て去られます。祈りの答えを知ることは、忍耐と謙虚さが求められます。今回は「祈りに失望しない」ことを学びます。
序 言 イスラエルは祈りの民であった
イスラエルの民は、一日三度祈りました。朝と午後と夕の祈りです。その時には、定められた祈りの言葉(形式)がありました。これに加えて、人々は自分の願いを祈りました。熱心な人は長時間繰り返し・繰り返し祈りました。そうすることで信仰を表そうとしたのです。
それでも祈り続けることが出来ない人が多くありました。祈りに躓いた人たち、祈りを諦めた人たちが多くいたのです。このため、主イエスは「あきらめない祈り」を弟子たちに例えを用いて語り掛けます。なぜ祈り続けられないのか、その理由は幾つか推測できます。①祈りはすぐに返事が来ない、②祈ったことがその通りにならない、③祈る人が気分に流される、④待たされる間、動けなくなる、⑤自分でやったほうが早い、こうした理由は二千年たっても変わることがありません。私たちは気分的で、飽きっぽい性格です。このために、一心に祈り続けることが苦手です。
本論1 祈りは簡単だが、実は難しい
私たちはこれまでの生活の中で、かつては祈らずに暮らしてきました。祈りをするのは特別の時だけでした。祈りは身近なことですが、祈らなければ生きていけないし、生活に困るというわけではありませんでした。信仰を持ってからも、祈りを忘れても日々の生活は動いていきます。しかし、祈りの恵みは祈る者だけに与えられる恵みがあります。そこで今日の主イエスのたとえ話からまず説明します。
主イエスは、この時代に存在していたと思われる、不正な裁判官の態度を通じて、「あきらめない祈り」の大切さを教えられています。彼は裁判官であっても、その性格は傲慢であり、欲深い裁判官でした。訴える者から、そして訴えられる者から賄賂を受け取り、いい加減な裁判を行っていました。彼は神を恐れず、人を人とも思わない、どうして裁判官になれたのかと怪しむほどの場違いな人物でした。そうした人が実際にいたのかもしれません。
ところが、一人の生活に困った女性が、切羽詰まって、しつこく何度も裁判を求めてやってきました。「うるさく・目ざわり」という理由で裁判を開き、この女性の訴えを取り上げてくれました。これは、世にいう「熱意が人を動かす」ことを表しています。いうまでもなく、この女性に有利なように不正をしたということではありません。うるさいので、一文の得にはならないが裁判をしてあげたということです。私たちの生活においても、熱意に根負けした経験や、熱意で人が動いてくれた経験があるでしょう。熱意はとても大きな力を持っています。
ですから一生懸命を高く評価します。もし熱心さが利かれる祈りの秘訣であれば、私たちは厚かましく、自分の願いを押し付ける祈りをするようになり、祈りは祈る人の手柄となり下がります。欲深い人・しつこい人が熱心な信仰者になりかねないことになります。
本論 2 主のたとえ話の不可解さ
しかしこのたとえは、何か違和感があります。どんなことでもよいから、ごり押しをすれば、厚かましくすれば、人はあなたの願いを聞いてくれるように受け止めがちです。しかし、このたとえは、立派な裁判官だけでなく、たとえ不正を働く傲慢な裁判官でも、「切実さ」「熱意」には動かされるという意味です。このために、あえて主イエスは不正な裁判官を例えに用いました。ましてや神さまなら、愛する者のために、耳を傾けてくださらないはずはないと、7節で比較されています。祈りの根底にあるものは、祈りをささげる方への信頼が問われています。「信じて祈っていますか」という問いかけです。
本論 3 祈りは待つことが求められる
祈る者には、祈る者の都合や思いがあります。どうしたいのか、どうしたくないのか、いつが希望なのか、期限も内容についても希望があります。ちょうど宅配便のように。最初から「お任せします」とは、決してなりません。祈りを続けていく中で、時期も内容も結果も、再度考慮をすることが求められます。そして最後には「お委ねします」という方向に導かれます。自分の思うとおりになることに固執していれば、時間がかかります。そしてあきらめるのです。そうした人は、そののち「祈りも期待もしない」状態になります。
待つ時間は、考える時間であり、再度検討する時間です。そうした中で、祈りの内容は精査されていきます。待つということは、最高の信仰の訓練です。待てない人は、祈ることもなく、さっさと自分で決めて、自分で行動します。それが楽であり、ストレスがかかりません。祈ることは、忍耐を要するのです。飽きっぽい私たちにとっては、かなりしんどいことです。神さまに頼るより、自分で動いたほうが早い、そう考えてしまいます。
まとめ 神は祈る者の信仰の気まぐれを心配される
祈りにおいて、私たちは神さまの存在や誠意や愛を疑いますが、神さまのほうでは、私たちの信仰の持続を心配されます。神さまの準備か整って祈りに答えてくださったときに、私たちはすでに別のことを考え、別の生き方をしてはいないかと、心配されます。祈りは単に、神さまの答えを引き出す道具ではなく、私たちの信仰そのものを育て、引き出すものだと教えておられます。信仰が生きて続くために、祈りは用意され、時の来るのを待つことになります。祈りは、人生の主導権を神さまに一任するということです。これは自分のために、神さまをも利用しようとする私たちにとって、とても骨の折れる訓練です。
祈りの根底には、私たちの希望や価値観や判断よりも、神さまの判断のほうが私たちの人生のためになると信じられますか、受け入れられますかとの問いかけがあるのです。祈るということは、信仰の入り口であるとともに、最も奥深い部分でもあります。祈りましょう。