マタイの福音書 27章45節~50節

2024年4月7日 勝本正實

 主 題   「人生と孤独は、分かちがたい」

    招きの言葉 詩篇119篇129~135節   今週の聖句 詩篇69篇16節

命 題   今日の説教テーマは、主イエスが父なる神に向かい、十字架上で叫ばれた「孤独」である。孤独はいつの時代にもある。なぜなら、人は一人で見知らぬ世に生まれ、一人ボッチで見知らぬ世界に赴くから。孤独は人間の特性である。ところが、今の時代は孤独を恐れる人が増えている。私たちの国では、自由が幅を利かせているし、個人主義と個性の尊重が謳われるとき、副作用として孤独が付いてくる。孤独は自由と比例する。主イエスが、父なる神に向かって叫ばれた言葉の真意を通じて、今を生きる私たちの孤独の意味深さを学ぶ。

序 言 十字架上の言葉の一つ

今日開いた聖書個所は、教会で語られる「十字架上の7つの言葉」の一つです。本来神である主イエスが、人間の心と身体をも持っておられたゆえに、十字架の激しい痛みと苦しみの中で、父なる神に助けを求められたと理解される考えが多くあります。しかし、それはただの一面に過ぎず、主の叫びの本当の意味は、罪を犯したことの無い方が、罪びととして扱われ、しかも身代わりの罪を背負うことで、父なる神との間でこれまで味わったことの無い内面的な苦しみと、激痛が走る肉体的な痛みの中で、人間の孤独と恐れを感じて、叫ばれた言葉が46節に記された悲痛な叫びとなって記されました。この礼拝の中で、主イエスの口をついて出た「孤独や恐れの入り混じった言葉」から、今の私たちの時代の孤独について学びます。

本論1 誰も主イエスの十字架の意味を理解しない

人間的な言い方をすれば、主イエスはずっと孤独でした。主イエスがあえて選ばれた十字架の出来事の意味を正しく理解できる人はいませんでした。弟子たちは主イエスを案じながらも、わが身大事で逃げましたし、主のために祈れる人も果たしていたかどうかも分かりません。ご自分は多くの人のために死んでいこうとされているのに、多くの人は十字架の意味を理解しませんでした。「親の心、子知らず」の状態となっていました。

目の前で起きていることを理解できない人々に直面し、主は同じ処刑を受けた一人の強盗を信仰に導き、母マリアの行く末を弟子のヨハネに託し、十字架をあざ笑い罵る人のためにとりなしの祈りをささげて、すべての役割を終えられる前に、「罪が神と人を隔てる」ことからくる「孤独」を、自ら体験されて後、死に赴かれました。周りの聴衆は、主が語られたエリ・エリという言葉を聞き違い、主イエスがエリヤを呼んでいると誤解しました。笑い話のようなことが痛ましい場面で起こりました。また、酸いぶどう酒を差し出すほどの痛ましさへの同情は示せても、自分たちが犯した、罪のない方を死罪にする愚かさ・残酷さを露呈する人間の身勝手な正義にも気づけません。十字架の出来事は、人間の愚かさと罪深さとともに、神が罪を知らない方を「贖いの捧げもの」とする慈愛の表れとして、救いの道備えをされた出来事となりました。この当時、主が前もって語られていたにもかかわらず、十字架の意味を理解できる者はいませんでした。主の復活後に真の意味を知ることになります。

本論2 主イエスの孤独の解釈(へブル書5710)

主イエスが十字架の上で、父なる神に叫ばれた言葉の意味を解説してくれているのが、へブル人への手紙5章7節から10節の言葉です。「聖書は聖書をもって解釈する」原則に倣い見てみましょう。へブル書5章の言葉は、直接的にはゲッセマネでの主の祈りの言葉を表していると理解されていますが、それにとどまらず、十字架での出来事をも含んでいると理解しても差し支えありません。主イエスは、ゲッセマネの園でも孤独であり、十字架上でも孤独でした。主イエスの人生そのものが、大祭司としてのとりなしの人生だったからです。主イエスが味わった肉体的・内面的苦しみや孤独は、私たちすべてのものと同じ経験を通して、しかも神の御心に従う聖書の教えを全うする生き方でした。私たちには出来なかったことを、主イエスは30数年の人生において、聖書の教えを全うして下さいました。

その歩みそのものは、誰にも理解されない「孤独」そのものだったのです。私たちは孤独を恐れて、人との親しさや理解を求めますが、主イエスは人を理解はしても、誰からも理解されない人生を歩まざるを得ない方でした。その方が、唯一の理解者である父なる神に叫ばれた言葉が「どうして私をお見捨てになられたのですか」という孤独であったのだと思います。み言葉に教えられて、「神がともに居てくださる」と信じつつも、心の中でその神を疑い、不安を持つのは、私たちの信仰の未熟さだけでなく、罪が私たちと神を隔てる垣根となっているからです。主イエスが人となってくださった事で、孤独を味わうのは避けられないことだったのですが、最後にはすべてを神に委ねる(ルカ23:46参照)ことで、その孤独をも乗り越えられたのだと理解されます。

本論3 今の私たちの孤独とは

私たちが暮らす今の社会は、日本の過去の歴史の中で、最も自由で豊かな品物に恵まれた状況にあります。「個人主義」とか「個性を大切に」とか「自己実現」とか言いつつも、同時に「孤独」を感じている人も増加しています。それは単に一人暮らしの方が増えているとか、近所の人との付き合いが減ったという問題ではなく、一人でも暮らしが成り立つ社会や、自由を求めることは他の人への関心が薄くなることでもあるという事実に気づかなくなることでもあります。これまでの地域社会は、家族や他の人と関わることで、生きていける社会でした。それは時に面倒であり、窮屈なことでもありました。ですから人目を気にせず、自由に決められることは魅力的でした。しかしそこには、欠点もあったのです。人のことに気を使わなければ、自分も気を使ってもらえないという単純な理由です。つまり、自由・自分中心は、孤独という副作用をもたらします。この副作用を中和するには、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛すること」のみ言葉に帰ることです。周囲の人に関心を持つことです。教会でも個人主義はまかり通ります。交わりが薄っぺらになると、教会で本音を言わず、関わりを避けるようになります。孤独を感じる人が教会に来ても、教会は受け止められなくなります。孤独は教会においても、今日的な課題となっています。

まとめ 孤独を受け入れる生き方へ

本来、私たち一人一人は孤独です。それを受容することです。しかし、孤独を和らげる事は出来ます。それはお互いの存在です。私たちは神との個別的な交わりとともに、他の人との緩やかな交わりを必要とする存在です。人は別人によって自分を支えていけるように、創られています。主もまたこの地上では家族を必要とされました。    祈りましょう。

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