2023.12.24 鳥居光芳
クリスマスおめでとうございます。今日はイエス・キリストの御降誕を記念するクリスマス礼拝ですが、12月3日から始まっているアドベントの期間中、私達は主を迎えるための心の準備をしてきたでしょうか。この世にお生まれになったイエス様は、人間社会の中に生まれて来ただけでなく、私達一人ひとりの心の中に入って、私たちと親しく交わりを持つことを望んでおられます。そのようなイエス様をお迎えするための準備をするようにと、バプテスマのヨハネが、当時の人々に鋭く迫りました。彼は、「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」」(イザヤ書40:3)と旧約聖書に預言されている「荒野に呼ばわる者の声」でした。また新約聖書のマタイ3:3にも書かれているように、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と叫んだ人でした。主の御降誕を待ち望むアドベントの期間中、私達は、主が通って来られる道を平らに整えたでしょうか。あるいは真っ直ぐにしたでしょうか。そのように努めた方もいらっしゃれば、若干手抜かりがあったと思っている方もいらっしゃるかもしれませんけれども、今からでも遅くはありません。主をお迎えする道を平らにし、真っ直ぐにして、イエス様を心の中にお迎えいたしましょう。
主をお迎えする道を平らにし、真っ直ぐにするという事は、私達の心の中から罪を取り除くということです。罪という言葉の語源は、ギリシャ語では「的外れ」、ヘブル語では「断絶」だそうです。「的外れ」の「的」とは何かと言うならば、それは天地万物を創造された神様のことであって、その神という的を外して背を向けている事が罪であり、それは神と断絶している状態です。神様は、罪のためにご自分と断絶している私たち人間を亡びから救い、永遠の命を与えて下さるために、独り子であるイエス様をこの世に送って下さいました。その事を記念して祝うのがクリスマスであり、イエス様を通して私達に与えられた永遠の命こそが、神様が私たちに与えて下さったクリスマスプレゼントです。
イエス様が伝道の生涯を始める前、バプテスマのヨハネによって、救い主の到来が世に告げられましたが、彼は、神に用いられるべき特別な人間としてこの世に生まれてきました。そのために彼は、常識的には到底赤ちゃんを産むことが出来ないほど高齢の祭司ザカリヤとエリサベツという老夫婦の間から生まれてきました。高齢の夫婦から赤ちゃんが生まれるということは、天使ガブリエルによって伝えられました。ルカ1:19に、・「「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。」とありますように、やがてバプテスマのヨハネと呼ばれるようになる赤ちゃんが老夫婦に生まれてくるということが告げられました。しかしいくら天使から告げられた事とはいえ、彼は神の子ではなく、あくまでも男と女の間から生まれてきた人間です。人間である以上、アダムとエバに起源をもつ原罪を、バプテスマのヨハネも受け継いで持っていました。たとえ原罪であっても、罪を持っている以上は、彼が救い主ではあり得ません。
これに対して、彼よりも6カ月ほど遅く生まれてきたイエス・キリストは、本質的には人間ではなく、全く罪を持たない神の子でした。その事は、例えばルカ1:32に書かれていますが、御使いガブリエルがマリアの所にやって来て、・「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。」と告げたことが書かれています。また1:35においてもガブリエルは、・「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」と言って、マリアに生まれてくる子は神の子であることを告げています。更にⅠヨハネ3:5には、「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」とあって、神の子であるキリストには、原罪を含めて一切の罪が無い事を聖書は明らかにしています。この様にイエス様には罪が無いからこそ、私たち人間の身代わりとなって罪を取り除くことができ、私たちに永遠の命を与えることが出来たのです。
神の子救い主の誕生の次第については、ルカ1:26節にこのように書かれています。・「さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。」と書かれています。「六か月目」というのは、バプテスマのヨハネの誕生が祭司ザカリヤに予告されてから6カ月目ということですが、ヨハネの誕生の予告を祭司ザカリヤに告げた御使いガブリエルが、再び一人の処女の所に現れました。この処女は、1:27節を見ますと、ダビデ王家の家系を持っているヨセフという人のいいなずけで、名をマリアと言いました。この当時のイスラエルでは、ダビデ王家は既に滅亡しており、ローマ帝国の支配の下にヘロデ大王によって管理されていましたけれども、ダビデ王家の血筋は途切れることなく、ヨセフにまで続いていたのです。それは、救い主はダビデ王家から出るという預言が成就するためでした。エレミヤ23:5に、このように預言されていました。「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」と預言されていました。この預言のとおりに、イエス様は、全人類の王としてダビデ王家から生まれてきたのです。この様にイエス様は、全人類の王としてお生まれになりましたけれども、生れた時に初めて寝かされた所は、王宮の豪華なベッドの上ではなく、貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中でした。それはイエス様が、権力者や金持達の仲間となるためではなく、貧しい人々や弱い人々の友となって、そのような人々を救いに導くためにお生まれになってきたことを象徴するものでした。
マリアの所に現れた御使いガブリエルは、このように告げました。28節ですが、・「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。この「おめでとう マリア」という言葉は、ラテン語で「アヴェ マリア」ですが、突然現れた御使いに「おめでとう」と言われても、マリアには何のことか見当がつかず、ひどく戸惑ってしまいました。しかし御使いは、更に続けて言いました。30,31節ですけれども、・「すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。1:31 見なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」」とあります。マリアは神から恵みを受けて男の子を身ごもる、ということが御使いによって告げられたのです。しかしいくら「恵みを受けて」とは言っても、マリアとしては、素直には喜べませんでした。それは、この時マリアはヨセフと婚約していましたけれども、まだ結婚はしていなかったからです。当時の慣習によれば、男は18歳、女は14歳で結婚適齢期となり、親の決めた相手と婚約して、数年の婚約期間をおいてから結婚するのが普通でした。婚約期間中は、法律的には結婚したと同じように見なされましたけれども、まだ二人一緒に生活することまでは許されませんでした。ですから婚約期間中に身ごもるという事はあり得ないことで、もし身ごもったならば、罪を犯した女と見なされてしまいました。申命記22:23にこのようにあります。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、22:24 あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。」とあります。婚約中のマリアが身ごもったという事が人々に知られたら、彼女は石を投げられて殺されてしまいます。それ以上にマリアが恐れた事は、婚約者のヨセフに知られる事だったのではないでしょうか。しかし黙っているわけにはいきませんから、マリアは事の次第をヨセフに知らせたことでしょう。話を聞いたヨセフは、マリアを深く愛してはいましたけれども、さすがに彼女の話を、そのまま理解することは出来ませんでした。そこでヨセフはひそかにマリアを離縁しようとしたと、マタイ1:19に書かれています。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」と書かれています。密かに去らせて、本当の夫と結婚させてやろうという優しい思いだったのでしょうか。しかしマタイ1:20,21には、続いてこのように書かれています。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」と書かれています。そのような夢を見たヨセフは、御使いに言われた事を全て信じ、改めてマリアを妻として迎え入れましたが、「子を産むまでは、彼女を知ることはなかった。」と聖書に書かれています。このような事まで聖書に書かれているのは、イエス様が普通の人間のように、男と女の間から生まれて来たのではないことを明らかにするためです。イエス様は、聖霊がマリアの胎に入って宿り、そこで人間の形になってから生まれてきたのです。この様にして生まれてきたイエス様ですけれども、ヨセフが自分の子どもと認めましたから、法律的にはヨセフの子となりました。ルカ2:1には、ローマ皇帝アウグストの時代に、住民登録をするようにという命令が出され、ヨセフとマリアも登録するために、ナザレの町からベツレヘムに向かって旅をしたという事が書かれていますけれども、ひょっとしたら、生れたばかりのイエス様も、ヨセフの家族として登録されたのかもしれません。しかし残念ながら、記録は残っていないようです。
御使いから告げられたことは、マリアにとっては喜びであるよりも戸惑いであったであろうと思いますけれども、・「神にとって不可能な事は何もありません。」と言う御使いの言葉に押されたように、信仰深いマリアはこのように答えました。・「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と信仰によって答えることが出来ました。その信仰のとおりに、マリアは処女であったにもかかわらず、救い主であるイエス様を胎に宿し、無事に生むことが出来ました。また住民登録をするためにナザレからベツレヘムまで旅をした1週間近い間、身重になっていたマリアの体は無事に守られました。また飼い葉桶に寝かされた生まれたばかりのイエス様も、無事に守られて大きく成長しました。このように約2000年前、マリアの周りには数々の奇跡がに起きましたけれども、それはマリアだけに起きた事ではありません。今の時代でも、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」という信仰を持っているならば、「神にとって不可能な事は何もありません。」という出来事が、私達の身にも起きるのです。
それにしても、イエス様は何故処女であるマリアから生まれなければならなかったのでしょうか。ヨセフと正式に結婚してからでも良かったのではないでしょうか。しかしそれでは、人類の始祖であるアダムとエバに起因する原罪を、イエス様も遺伝的に受け継いでしまいます。たとえ原罪であっても、罪を持っている者が救い主になることは出来ません。罪を持っている人が、他人の罪を処理することは出来ません。水に溺れている人が、溺れている他人を救うことが出来ないのと同じです。救い主には、罪が有ってはならないのです。しかも罪のある私達人間の身代わりとなるためには、人間社会の中で人間と同じ悩み苦しみを体験した人でなければなりません。聖霊のままでは、人間の身代わりになることは出来ないのです。そこで神様は、マリアの胎に聖霊を下し、そこで人間の体を持つ救い主としてから、イエス様をこの世に送り出されたのです。ですからイエス様の誕生は単なる誕生ではなく、御降誕なのです。
約2000年前にイエス様は、人間の常識では考えられないような不思議な方法でこの世にお生まれになりました。それによってイエス様は、アダムとエバに起因する原罪を引き継ぐことのない、全く罪の無い方としてこの世にお生まれになりました。そのイエス様が、私達の罪を負って十字架に架かり、死んで下さいました。それによって、イエス・キリストを信じる人の罪は全て処理されました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)と聖書にありますけれども、イエス・キリストを信じる人の罪は全てイエス様によって処理されましたから、私達は罪の無い者とされて永遠の亡びから免れ、代わりに永遠の命が与えられました。この永遠の命こそが、イエス様を通して神様が私達に与えて下さったクリスマスプレゼントです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とヨハネ3:16にあるとおりです。私たち人間を愛して下さっている神様は、人間には思いもつかないような奇跡を起こしてまで、クリスマスプレゼントして永遠の命を与えて下さったのです。十字架の上でイエス様の命が代価として支払われた尊いプレゼントを、決して無駄にすることのないようにしましょう