ヨハネ13:16~30 「愛されていることを知る」

2023.8.20 あらき野礼拝

 お盆も過ぎて、少しづつ秋の気配を感ずるようになった今日この頃ですけれども、暑さがなかなか収まりません。暑さの中のお盆ではありましたけれども、お盆と言っても、毎年少しづつ季節感が薄れていくような気がします。昔私が社会人になって初めて就職した頃には、まだ世間にはお盆休みという風習が色濃く残っていまして、その時期になると、会社は何日間か一斉に休みになりました。2~3年すると、全社員が一斉に休むのではなく、仕事を続けながらも、お互いに日にちをずらして休みを取るようになりました。今では会社に行かなくても、家で仕事をするホームワークも一部では認められるようになって、社会の在り方はどんどん変わって来ています。そのような変化について行けるように、心も体も備えていなければならない若い人達は、大変であろうと思います。社会はどんどん変化していますから、今日真理だと思っていたことが、明日には古臭くなっている事もあります。昔のバブルの時代には、「よくやった!」と今日褒められた事でも、あくる日になると、「事情が変わった 何故やった!」と叱責されるということも結構あったようです。安田生命が毎年行っていた川柳大会では、この、「よくやった 事情が変わった 何故やった」という川柳が、この年の優秀作品の一つに選ばれていました。この様に世間の真実はころころ変わりますけれども、私達が信じている神様の真実は変わることがありませんから、どのような時にも、神様の御言葉に従っていきたいと思います。
前回は、イエス様が12弟子たちの足を洗われたところからメッセージを取り次がせていただきましたけれども、イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、「自分達の中で誰が一番偉いのだろうか。」などと議論している弟子たちを戒め、互いに仕え合うことの大切さを教えるためでした。その時イエス様は13:14で、・「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりせん。」 とおっしゃって、互いに仕え合うことの大切さを説かれ、同時に16節で、・「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」と言って、弟子たちを諭されました。その意味は、僕は主人に勝ることはないのだから、弟子たちの足を洗った私の姿を見たあなた方は、ただ見ているだけでなく、同じように行わなければいけない、ということであって、互いに仕え合うことを、行いに現わすことの大切さを説かれたのです。そして17節で、・「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたはさいわいです。」と言っておられます。互いに仕え合うことの大切さを、私達は頭では理解していますけれども、なかなか実行に移すことが出来ません。しかし、実行する人間こそ幸いな人である、とイエス様は教えられたのです。「幸いな人」と言いますと、有名な御言葉を思い出します。「心の貧しい者は幸いです。天国はその人のものです。」(マタイ5:3)という御言葉ですが、ここでイエス様は、心の貧しい人こそが真に幸いな人であるとおっしゃいました。心の貧しい人というのは、「自分には誇りにできるものは何一つ無く、ただ神様に従っていくより他に生きる道はない。」とまで思っているような人のことです。そのような人は、誰に対しても偉ぶるような事はありませんから、相手が誰であっても、自分から進んでその人の足を洗い、仕えることができます。そのような人こそが幸いな人であり、天国に入ることが出来ます。天国というのは、死んでから行く所と決まっているわけではありません。この世でも神様の支配が及んでいる所は全て天国です。ですからこの教会の中は、天国なのです。しかし、「自分達の中で、誰が一番偉いだろうか。」と議論し合っている12弟子たちの心は高ぶっていて、心が貧しいのとは正反対の状態でしたから、この時彼らは地上の天国に入ってはいなかったでしょうし、死んでから行く所の天上の天国にも入ることが出来なかったかもしれません。しかし幸いにも、ペンテコステの時に聖霊に満たされて、心の貧しい人間に変えられましたから、人生のぎりぎりになって、彼らは天国に入ることが出来たのではないでしょうか。
しかし12弟子の中で唯一人、天国に入ることの出来なかった人がいます。それは、イスカリオテのユダです。イエス様は12弟子たちに、互いに足を洗い合い、互いに愛し合うべきことを教えられましたけれども、「そのような事をしたくらいでは、とても社会を変えるような大きな事は出来る筈がないのではないか。」というのがユダの考えでした。先ほど引用しました16節の御言葉、・「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」という御言葉について、先ほどは、主人である私があなた達弟子の足を洗ったのだから、弟子であるあなた方も、主人である私と同じように、互いに足を洗い合うべきである、というように解釈しましたけれども、これとは少し違った解釈をすることも出来るような気がします。それは、「僕は主人に勝るものではないから、主人が考えている事よりも、自分の考えの方が優れていると思ってはならない。」という、僕に対する戒めの言葉として理解する事も出来るであろうと思います。イエス様が弟子たちに、互いに仕え合うことの大切さを教えておられた時、イスカリオテのユダは、心の中でこのように考えていたのではないでしょうか。「互いに足を洗い合って仕え合うのも良いけれども、社会を変えるためには、そんな事ではまどろっこし過ぎるのではないか。」と考えていたのではないでしょうか。この時ユダは、イエス様が考えておられた以上の事をしようとしていたのです。それは、イスラエルの国をローマの支配から独立させることによって、社会を一気に変えてしまおうとする事でした。しかしそれは、私たち人間が互いに仕え合うことによって、少しづつこの世を天国のように変えていこうとするイエス様の考えを、真っ向から否定するものでした。このようにユダは、師であるイエス様の思いとは相反する事をしようとしたために、やがてそれが、イエス様を裏切ることに繋がっていってしまいました。
イエス様は初めからユダの心を見抜いておられましたから、18節で、・「わたしは、あなたがたすべてにについて言っているのではありません。」と言って、12人の弟子たち全員が天国に入ることの出来る幸いな人ではないことを、明らかにしておられます。イエス様は、ユダがご自分を裏切ることになることをご存知でしたけれども、そのユダをもイエス様は、弟子として選ばれたのです。そうしますと、イエス様は弟子の選び方を間違えたのでしょうか。そうではありません。というのは、弟子の一人がイエス様を裏切ることになるという事は、旧約聖書に預言されていたことであって、誰が弟子になっても、その内の一人が裏切ることになっていたのです。その事をヨハネは18節で、・「聖書に、『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます。』と書いてあることは成就するのです。」と言っています。ヨハネが引用した聖書の言葉は、詩篇41:9からの引用で、そこにはこのように書かれています。「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」と書かれています。「私のパンを食べた友」というのは、食卓を共にするほど親しい友という意味であり、「かかとを上げる」というのは、悪意のある暴力、即ち反逆を意味しています。この様に旧約聖書には、イエス様と食卓を共にするほど親しい友が反逆するようになる、ということが預言されていました。しかしそれが誰であるかは、この時にはまだわかりませんでした。マルコ14:18に、このように書かれています。「みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。』」とイエス様はおっしゃいました。「すると弟子たちは悲しくなって、『まさか私ではないでしょう。』とかわるがわるイエスに言いだした。」(マルコ14:19)と書かれています。イエス様から、「あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と言われたとき、弟子たちは全員が、自分の事を言われたのではないかと思ってドキッとしたのではないでしょうか。だから思わず、「まさか私ではないでしょう。」という言葉が口をついて出たのです。ですから12弟子たち全員に、イエス様を裏切る可能性があったのです。事実イエス様が捕らえられた時、弟子たちはイエス様を裏切って、散り散りに逃げてしまいました。イエス様が12弟子の一人にユダを選ばなかったとしても、他の誰かが裏切ることになっていたのです。
19節に、・「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」とあります。「事が起こる前」というのは、イエス様が十字架に架けられる前、ということです。何の前触れもなく、イエス様が突然捕らえられて十字架に架けられ、死んでしまったのでは、イエス様は唯の人間に過ぎなくなってしまいます。しかし、弟子の裏切りによって死んでいく事をあらかじめ知らせておき、実際にそのとおりになったならば、イエス様は唯の人間ではなく、「わたしはある」という者であったということを弟子たちは知ることが出来ます。「わたしはある」というのは、旧約の昔に、モーセが神様にその名前を伺ったとき、「わたしはある」という者である、と答えられたことによっています。その意味は、「ご自分は、何ものにも依存する事のない絶対的な存在である」ということであって、それ故に、ユダがご自分を裏切ることになるという事も、予め知っておられたのです。このようにイエス様は、思いがけなくも死ぬことになったのではなく、旧約聖書に預言されているとおりに、弟子の一人に裏切られて死んでいくという事を、前もって知らせておくことによって、ご自分が「わたしはある」という者であることを、弟子たちに知らせたのです。勿論「わたしはある」というのは、父なる神様の名前ですけれども、イエス様も三位一体の神ですから、イエス様が「わたしはある」という方であると言っても、全く問題はありません。
23節に、・「弟子のひとりがイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。」とあります。ここに出てくる弟子の一人というのは、このヨハネ福音書を書いているヨハネ自身のことであると言われていますが、彼は自分の事を、・「イエスが愛しておられた弟子である。」と、自信をもって書いています。私たち日本人は、自分の事については、もっと謙遜して表現することが多いのですけれども、こと、イエス様と自分との関係については、これくらいの自信を持っていても良いのではないでしょうか。イエス様はヨハネを愛しておられましたけれども、ヨハネだけが特別に愛されていたわけではなく、12弟子たち全員が愛されていました。12弟子たちは、自分達がイエス様から愛されているという事について気がついていたでしょうけれども、12弟子の一人であるイスカリオテのユダだけは、十分に気がついていなかったのではないでしょうか。その結果、彼はイエス様を裏切るという大きな罪を犯してしまいましたけれども、私達も、イエス様から愛されていることに十分気がついていないと、大きな過ちを犯してしまいます。イエス様から愛されている事に気がついているならば、心が聖霊に満たされて、私達の方からイエス様を愛することが出来ますし、また人を愛することも出来ます。しかし気がついていませんと、心の中の隙間にサタンが入り込んで来て、イエス様を裏切るように仕向けられてしまいます。それは27節に、ユダについて、・「そのとき、サタンが彼に入った。」と書かれているとおりです。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とⅠコリント13:13にありますが、私達がいつもイエス様から愛されているということに気が付いていれば、信仰も希望も失うことはありませんし、イスカリオテのユダのように、イエス様を裏切ることもありません。イエス様から愛されている事にユダは気がついていなかったのに対して、ヨハネは自分のことを臆面もなく、「イエスが愛しておられた弟子」と言って憚りませんでしたけれども、私達もこれ位の自信を持っていれば、サタンに付け込まれるような事は無いであろうと思います。
先ほどの23節に、このヨハネがイエス様の胸のところで横になっていたとありますが、これは当時のユダヤの食事時の様子です。レオナルドダヴィンチが描いた「最後の晩餐」の絵では、イエス様も弟子たちも椅子に座っていますけれども、本当はそうではなく、高さの低いテーブルを取り囲んで全員が横になり、足を投げ出すような格好で食事をしたそうです。「弟子の一人であるヨハネが、イエスの胸のところで横になっていた。」というのは、ヨハネの背が低くて、イエス様の胸のあたりまでしかなかったというのではなく、イエス様の隣で横になっていたヨハネの頭が、丁度イエス様の胸のあたりにきていたという事です。このようにヨハネはイエス様のすぐ隣に居ましたから、イエス様がおっしゃった言葉の一つ一つがよく聞こえたであろうと思いますが、ペテロは少し離れた所に居たようで、「あなた方の一人が、私を裏切ることになるのです。」とイエス様がおっしゃったとき、誰の事を言っているのか聞くようにと、ペテロはヨハネに合図を送りました。そこでヨハネはイエス様に尋ねましたが、そのことについて25節に、このように書かれています。即ち、・「その弟子(ヨハネ)はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。『主よ。それはだれのことですか。』」と書かれています。このような事は、イエス様の席から離れていたペテロには聞きづらい事でしたけれども、イエス様の胸元で横になっているヨハネには、小さな声でも届きますから、聞き易かったのです。
ヨハネの問いに対して、イエス様の答えが26節に書かれています。・「イエスは答えられた。『わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。』それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」と書かれています。しかしこれでは、「自分を裏切るのは、イスカリオテのユダだ。」と大っぴらに言っているようなもので、初めてこの個所を読んだ時には、「イエス様とは、こんな陰険な事をする人なのか。」と思ったことがあります。しかし何度も読み返しているうちに、「そうではないだろう。」と思うようになりました。この様な宴席では、主人に当たる人がパンをちぎってスープに浸し、それを自分の気に入った人に与えるということがよく行われていたそうです。日本でも、主(あるじ)が気に入った者に対して「自分の盃を与える」というような事が行われていますが、それと同じような事であろうと思います。おそらくイエス様は、スープに浸したパン切れを、ユダにだけ与えたのではなく、12弟子全員にお与えになったのであろうと思います。ですから誰も、ユダがイエス様から特別扱いをされているなどとは思わず、ましてや彼がイエス様を裏切ることになるなどとは思ってもみなかったことでしょう。ですから、この後ユダが席を外して外に出て行った時にも、不審に思う者はいませんでした。
27節に、・「ユダがパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。」とあります。イエス様からスープに浸したパン切れを受けるという事は、イエス様から愛されているというしるしです。先ほども申しましたように、ユダ以外の他の弟子たちもパン切れを受けたであろうと思いますが、それによって彼らはイエス様から愛されていることを知り、感謝したことであろうと思います。しかしユダは、イエス様から愛されていることに、全く気がついていなかったのです。そのためにユダの心の中にサタンが入り込んでしまいました。30節に、・「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とありますが、晩さん会は夜に行われるのですから、わざわざ「時は夜であった。」と書かなくてもわかりきっている事ですけれども、世の光であるイエス様から愛されていながら、それに気がついていなかったユダの心の中は、闇のように真っ暗であったという事を表現しているのでしょう。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とありますが、私達は一番優れている愛をイエス様から受けています。その事を自覚している限り、イエス様を裏切るようになることはなく、平安の内に日々を過ごすことが出来ます。どのような時にもイエス様から愛されているという事を、忘れることのないようにしましょう。

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