ヨハネ16:1~15

わたしは世に勝った

2024.3.17  鳥居光芳

最近は寒さの中にも春が近づいている気配を感ずるようになってきましたけれども、そのような時期によく「三寒四温」という言葉が使われます。1週間の内寒い日が3日続き、その後暖かい日が四日間やって来て、そのような事をしばらく繰り返しながら、やがて7日間全てが暖かい日になるということでしょうか。俳句の季語にもなっているそうですけれども、意外にもと言いますか、春の季語ではなく、冬の季語だそうです。元々この言葉の発祥の地は中国だそうですが、中国は大陸であるからでしょうか、冬は、寒い日が3日間、暖かい日が四日間、交互に規則正しくやって来るのかもしれません。その言葉が日本に入って来た時には、日本の気候に合わせて、冬から春に移り変わる時期に使われるようになったのかもしれません。
冬のただ中にしても、冬から春に移り変わる時にしても、何事にも時があります。三寒四温も、春が近づいていることを私達に知らせてくれる前触れと受け取るならば、それも時です。伝道の書(3:1,2)には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(3:2)と書かれていますが、生れるにしても死ぬにしても、神様によって定められた時があります。私達の教会では先達て小川姉妹を天にお送りし、今日午後から教会墓地で納骨式をします。もう少しの間、一緒にいて欲しかったという気がしないでもありませんけれども、神様が定めた最も良い時であったのでしょう。
イエス様も、神様が良しとされた時に天に召されました。イエス様は、この世に生きているときから、やがて神様によって定められている時がやって来て、ご自分は十字架に架かって死ななければならない事をご存知でした。それまでイエス様は、12弟子たちと共に福音の宣教に当たって来られましたけれども、ご自分が死んだ後も、弟子たちが心を合わせて宣教活動を続けていくことを願っていました。そこでイエス様は、弟子たちとの別れのときである最後の晩餐の席で、弟子達一人ひとりの足をお洗になり、そして言われました。ヨハネ13:14ですが、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」とおっしゃいました。当時の人々の履物は、簡単なサンダルのようなものでしたから、体の中で一番汚れるのは足でした。ですから来客があった時には、お客様の足を洗ってあげるのが、客を迎えた主人の側の礼儀でしたけれども、実際に客の足を洗うのは主人ではなく、その家の奴隷でした。しかしイエス様は、自分から率先して弟子達の足を洗うことによって、他人の足を洗うのを奴隷に任せるのではなく、少なくとも自分達の仲間内では、互いに自分達で足を洗い合うことを弟子たちに求められました。それによって、イエス様の亡き後も、弟子たちが心を合わせて福音の宣教を続けていくことを求められたのです。相手の足を進んで洗うには、互いに愛し合う関係が築かれていなければなりません。そこでイエス様は、13:34にあるように、・「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とおっしゃって、ご自分が亡き後も、弟子たちが互いに愛し合う関係を保ち続けていくことを求められました。自分の気に入った物や人を愛すること、あるいは自分を愛してくれる人を愛することは誰にでもできますけれども、イエス様は、自分の敵をも愛されました。マタイ福音書(5:44)でイエス様は、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言っていますが、その言葉のとおりに、イエス様は、自分を敵に売り渡した弟子のユダをも愛されたのです。そのような愛はアガペーの愛と言われますけれども、イエス様は、間もなくこの世から居なくなるにあたって、弟子たちにも私達にも、アガペーの愛を持つように求めておられます。
このように、イエス様がこの世を去るにあたって、弟子たちや私達に一番強く求められたことは、互いに愛し合うことでした。しかし私達は、自分の努力だけでは本当に人を愛することは出来ません。自分が神様から愛されていることを知っていなければ、本当に人を愛することは出来ません。イエス様は弟子たちに対して、「互いに愛し合いなさい。」と言うことによって、神様から愛されている事を知りなさい、とも言っているのです。Ⅰコリント13:13に、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とありますが、私達は神様から「信仰と希望と愛」という尊い賜物を与えられています。しかしその中でも最も尊く、最後まで残るのは神の愛であると、このみ言葉は教えてくれています。どのような環境や状況の中にあっても、私達は、自分が神様から愛されているということを忘れてはなりません。
ヨハネ14:19に、「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。」とあります。イエス様は、自分は間もなく十字架に架かって死ななければならないことを、ここではっきりと弟子たちに告げられたのです。しかしその後、「しかし、あなたがたはわたしを見ます。」と続けて言うことによって、ご自分は死んでも甦って、弟子たちの前に姿を現することを告げられたのです。しかし、甦ったイエス様を見ることが出来るのは、信仰を持っている弟子たちだけであって、信仰を持っていない世の人々の目には見えないのです。そのような特別な新しい体で、イエス様は甦られるのです。将来再臨があった時には、私達も新しい体に変えられて甦るのですけれども、信仰を持っている人にしかイエス様の姿は見えなかったのと同じように、新しい体に変えられた私たちの姿も、信仰を持っている者どうしではお互いに見ることが出来ますけれども、信仰の無い人には見えないのであろうと思います。
このような話を、最後の晩餐の時に、イエス様は弟子たちになさいましたけれども、・「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」とヨハネ16:1に書かれています。天の神様のことを、「自分の父」と言っていたイエス様ですから、いざとなったら天の軍勢が助けに来るのではないかと弟子たちは期待していたかも知れません。しかしその時になっても天の軍勢が現れることはなく、イエス様はパリサイ人達に簡単に捕らえられ、簡単に殺されてしまいました。そのような事をやがて見ることになる弟子たちは、期待を裏切られた思いで簡単にイエス様に躓いてしまい、信仰から離れてしまうかもしれません。ですからイエス様は、ご自分が十字架に架けられて殺されることは予想外の事ではなく、前から知っていた事であるということを、弟子たちに知らせておく必要がありました。そうすれば、イエス様が死んだ後も、全ての事は生きている時におっしゃったとおりであったということがわかり、「やはりイエス様は神の子であった。」という事がわかるでしょう。
16:2に、・「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、そうすることによって自分は神に奉仕していると思う時が来ます。」とありますが、イエス様を殺した人々は、その次に弟子達を会堂から追放し、殺そうとするであろう、とイエス様は語られたのです。そうする事が神に奉仕していることになる、と人々が思う時代がやって来るからです。実際の歴史を見ても、イエス様が語ったとおりに、やがて弟子たちに対する迫害が起きてきますが、その時になって弟子たちは、イエス様が生前におっしゃっていたとおりであることを思い出して、やはりイエス様は神の子であったということに気がついたことでしょう。
ヨハネ13:36によれば、イエス様がこれからどこに行こうとしているのかまだよくわからなかった時には、「主よ、何処においでになるのですか。」と、弟子たちは気軽に尋ねていますけれども、しかしその後、事の深刻さを理解した今では、・「どこに行くのですか?」と聞く者は一人もいなかったと16:5に書かれています。
勿論イエス様は、天国に戻ろうとしておられるのです。何故天にお戻りになるのでしょうか。それについてイエス様は、16:7でこのように説明しておられます。即ち・「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」と説明されました。イエス様が天にお戻りになるのは、ご自分に代わって、助け主である聖霊をこの世に送るためであるというのです。しかしこの世の人々にとっては、目に見えない聖霊よりも、目に見えるイエス様の方が頼りになるのではないでしょうか。聖霊よりも、イエス様の方にいつまでも居てもらった方が良いのではないでしょうか。しかし、そうではありません。目に見える体を持っているイエス様は、世界中のどこにでも行けるというわけではありませんでした。ですからイエス様ご自身が日本にやって来て、福音を伝えたということはありませんでした。イエス様が伝道したのは、イスラエル国内だけでした。その点、目に見えない聖霊ならば、一瞬のうちに世界中のどこへでも行くことが出来ます。また世界中の何カ所にでも、同時に行くことが出来ます。このように世界中に福音を伝えて行くためには、肉体という制約を持っているイエス様よりも、目に見えない聖霊の方が都合がよいのです。
それならば、イエス様と聖霊の二人の神がこの世に居て下されば、もっと良いのではないかと思われるでしょうか。しかし、そういうわけにはいきません。というのは、聖霊は罪のあるところにはおいでにならないからです。ですから、イエス様が十字架に架かって血を流し、罪の贖いをして下さった後でないと、聖霊はこの世に来ることは出来ないのです。ですから先ほど、「(ご自分が)去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。」とイエス様がおっしゃったのは、そのような意味です。そうしますと、私達はこう思うかもしれません。つまり、「自分には罪が有るから、自分の所には聖霊が来ないかもしれない。」と思うかもしれません。しかし私達はイエスキリストを信じて洗礼を受けていますから、罪は全て贖われており、私達には罪が無いとみなされています。ですから、聖霊は私達の心の中にも来て下さるのです。
8節に、・「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とあります。これは、イエス様が天に戻った後に遣わされて来る聖霊が、この世でどのような働きをして下さるのかという事についての説明ですけれども、これだけではちょっと漠然としています。そこで次の9,10,11節で、その説明がされています。9節には、・「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」とありますが、イエス様を信じないことが罪なのであるということです。ですからイエス様の後にやって来る聖霊は、イエス様を信じないことが罪であるということを、私たちに教えて下さるというのです。
また10節に、・「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」とありますが、その意味はこういう事です。即ち、イエス様がこの世から居なくなって姿を隠すのは、世の人々の全ての罪を負って死ぬという事であって、その事を信じる人の罪は全て処理されて、その人は義と認められるという事です。即ちその人は、神の前に正しい人間であると認められるということです。イエス様の後に遣わされて来る聖霊は、そのような事を教えて下さるというのです。
また11節に、・「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」とあります。十字架に架けられて死んだイエス様は、死んだ後に、三日目に甦りました。サタンは死という武器を持ってこの世を支配していますけれども、イエス様はその死に打ち勝ったのです。ですからイエス様はサタンを審かれたのであり、聖霊は、このような事を私達に教えて下さるのです。
また13節に、「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、・・・・」とありますが、聖霊は、自分の意見や思いを語るのではなく、父なる神様から聞いた事や、子なる神であるイエス様から聞いた事を私達に伝えて下さるのですから、父なる神と、子なるイエス様がいてこその聖霊であり、聖霊さえいて下さればイエス様はいなくてもよい、というわけにはいきません。またその逆に、イエス様さえいて下されば良いというわけではないことは、先ほど申しあげた通りで、聖霊が教えて下さらなければ、罪とはどういうことかとか、イエス様の十字架の死による贖いの意味や、イエス様がサタンに打ち勝った意味など、大切な事が私たち人間にはわからないままになってしまいます。天の父なる神様と、子なる神であるイエス様と、聖霊の3人が揃って初めて、全てが完全になるのです。
最後の晩餐の席で、イエス様からこのような話を聞いた弟子たちは、イエス様が死ぬ直前になって初めて、イエス様がどういうお方であるのかわかったようです。その事について聖書には、16:29,30に、このように書かれています。即ち、・「弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、わかりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」と書かれています。しかしイエス様がどのような方であるのか、やっとわかったつもりになった弟子たちですけれども、イエス様が捕らえられた時には、散り散りになって逃げてしまったのです。口ではわかったと言っても、まだ完全にはわかっていなかったのです。そのような事もあらかじめ知っていたイエス様は、弟子たちを励まして言いまいました。33節の後半ですけれども、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とおっしゃいました。「世の中にはサタンの働きがあるために、患難を受けるのは仕方がないけれども、わたしは既にサタンに勝った。」とイエス様はおっしゃったのです。ですからイエス様を信じて、その後に従っている私達も必ずサタンに勝利するのです。信仰を持っていても患難があり、不安や悲しみもありますけれども、信仰から離れずにイエス様に従い続けていくならば、その不安や悲しみは必ず平安に変えられていきます。イエス様の弟子たちが、そうでした。私たちもそのようにしていただけます。

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