ルカの福音書 4章16節~21節

22024年6月2日 勝本正實

 主 題   「主イエスが伝えた福音とは何か」

    招きの言葉 詩篇119篇169~176節   今週の聖句 マルコ福音書16章15節

命 題   福音とは人を幸せにする知らせである。しかし、現実には福音が歓迎されないことがある。なぜなら福音は人々に、悔い改めや人生の方向転換を、つまり今の生活を改めることを要求するからだ。普段私たちは損得で判断するし、今の生活に犠牲を払うことを避ける。福音とは、神の価値観に従う者への祝福の結果である。福音は人々に選択の決断を求める。自分の価値観と神の価値観とが、時に衝突する。

序 言 人々は人生の希望・救いを求めていた
主イエスが生活された時代、イスラエルはローマ帝国に支配されて自由がなく、民を顧みない王のもとで生活は苦しい状況にあって、希望が持てませんでした。そうした中で、主イエスは人々に福音(幸せの音づれ)を語られます。人々は旧約聖書で教えられた救い主・メシアに対して、今の苦しい状況からの解放・救いを強く希望していました。このことは主イエスが、人々に与えようとされる事の間に、食い違いを生むこととなったのです。

本論1 主イエスの福音は、人生に苦しむ人に、まず提供された

まず、今日の聖書個所に注目しましょう。主イエスの福音は、政治的・経済的な救いのことではなく、宗教的なことに関心がありました。今日の聖書の御言葉の預言は抽象的なため、それぞれが自由に思い込める曖昧さがあります。例えば貧しいとは内面的な貧しさを知る人であり、捕らわれている事や盲人とは文字通りの身体的なハンディではなく、信仰的な意味合いで語られます。虐げられている人に主イエスが与えようとされたのは、自由の身分を得ることではなかったのです。
このことは、マタイ福音書の5章にも記されているように、主イエスの語ろうとされたことは、信仰的・人格的・個別的なことであって、政治的なことでも生活上のことでも国家のことでもありませんでした。このため主イエスがされようとすることと、人々との期待の間にはギャップがあったのです。主イエスは、このギャップを「つまづく」と表現されています。

本論 2 主イエスの福音は拒否された。それはなぜか
主イエスは約3年間、イスラエル各地を周り、神のみ国を人々に伝えられました。一時期、数万人程の信仰者を獲得されたが、次第に主イエスの信仰者は減り、主イエスが十字架にかかられた時に集まった人は、エルサレムで100名ほどにすぎませんでした。その原因の一つは、人々が求めたことと、主イエスが与えようとされたことに食い違いがあったことによります。
本来福音は、①自分の願いをかなえることではなく、神の御心を知り、それに従うことにある。②福音は、私たちに必要なものを与えると共に、神の為に捧げる・諦めることも起こる。③当時のイスラエルの人にとって、ローマからのイスラエルの救いは悲願であり、自分たちの暮らしが良くなることは、何よりの願いであった。しかし、④主イエスはそうしたことには関心がなく、あくまでも彼らの人生と魂の救いが大切であった。
このギャップが最後まで埋まることはなく、失望の内に主イエスは十字架にかかることとなりました。人々にとって十字架は、願っていた希望の敗北でしたが、キリストにとって十字架は、最終的な勝利であり、目的の完成を意味しました。

本論 3 福音は神の価値観の提供である
私たちはキリスト教に、そして教会に、何を期待しているのでしょう。目先の現実の課題もあれば、もっと根源的な課題もあります。何かを期待するからここに集います。しかし、神様は私たちをしばしば失望させられます。それは私たちが、神の御心と違うことを期待しているからです。神様の関心は、私たちの人生の救いであり、魂と体の救いです。この地上と来世の救いです。
このために、私たちの祈りは時として空振りに終わり、私たちの願いはむなしく葬られます。その代わりに、私たちが神様の御心とそこに従う自分を見つける時に、やっと神様と繋がることが出来ます。私たちの国では信仰を、がんかけの道具、気休めの道具としてきたため、神様との人格的な繋がり・臨在を学ばないままできました。主イエスが人々の病を癒されたとき、人々は喜びましたが、主イエスは「このことを人に言わないように」と口止めされたことが、数回記されています。病が癒されることは、主イエスがキリストであること、神の恵みが人々に表されていることの印・証しでしたが、人々にとってそれはご利益として受け止められる可能性が高いものでした。
この地上での生活のことも大切なことですが、その後のことはもっと大切と神様はお考えです。この地上は一時的であり、来世は永遠のことなので、その備えをする必要があります。

まとめ 福音は私たちに生活の変化を求める
私たちはこれまでの自分の人生の中で、多くの物を手に入れる努力をしてきました。まだ欲しいものはたくさんあります。たくさん得た後には何が残るのでしょう。自己満足と安心感です。しかし、神さまの関心は、私たちがどう生きたか、神さまとのかかわりをどう築いたかを注目されます。この世が教えてくれる人生、幸せでは、神のもとにはたどり着けません。人生の方向転換・価値の転換が必要です。その方向転換を教えるのが、福音なのです。つまり良い知らせです。良い知らせの中身は、「イエスこそ、人生の救世主」だと言うことです。

祈りましょう。

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