2025年5月18日 勝本正實
招きの言葉 詩篇139篇14~24節
今週の聖句 へブル書12章 2節
主 題 「人生での役割と信仰の関わり」
命 題 私たちは、一人一人能力も性格も人生も異なる。それは生まれた時から異なっている。しかし世の中では、それを無視するかのように比較し、優劣をつける。競争社会では、生まれた時からそれが前提となっている。神さまはなぜ、私たちを違うように造られたのか。置かれた環境・能力・健康は、容易に動かしがたい。このことと、信仰がどうかかわるのかをダビデとヨナタン人生の記録から学ぶ。中心テーマは、人生での役割と信仰の関わりである。
序 言 友になるのが難しい関係の二人
ダビデにとってヨナタンは、人生でただ一人の得難い親友であったと聖書の記録から推測します。しかも二人は、親友になるのが難しい立場に立つ二人でした。ヨナタンの父サウル王は初代のイスラエルの王、世の中的には跡を継ぐのはヨナタンでした。方やダビデは第二代目のイスラエルの王となった人物であり、ヨナタンとはライバル関係にありました。その二人が立場の違いを超えて、信頼関係で結ばれていました。こうしたことはとても珍しいことです。のちにダビデは王としての立場から、数多くの敵を抱えて生き、それは最後まで続きます。彼は死の床において、後継者ソロモンに、宿敵の後始末(列王記第一2:5-9)を命じています。二人の人生を比べながら、世の中での役割・働きと信仰に生きた姿について学び、今の時代の中で生きている私たちの信仰の在り方を学びます。
本論1 それぞれの人生の役割・働きでの視点
今日のみ言葉(サムエル第一20章)において、ダビデとヨナタンの深い信頼関係が、立場の違いを超え強固であったことが記されています。ヨナタンが父サウル王の嫉妬と怒りの殺意から命を懸けて守ってくれなければ、ダビデは次の王になれない危機的状況にありました。単なる友情・信頼以上のものです。
まず、歴史の記録の観点で、二人の働き・実績から見てみましょう。ヨナタンは、サウル王の子どもとして、跡継ぎになれる立場にありましたが、ペリシテ人との壮絶な戦いの中で、父親と共に戦死します。負ける可能性の高い戦争の中にあっても、父サウル王に従い、ダビデの側に着くこともせず、父や兄弟と共に家族を残して戦死します。彼は最後まで、父サウル王を支えました。父親の生き方に疑問を持ちながらも、またダビデへの親友としての信頼を持ちつつ戦死します。この世的には、気の毒な人生でした。聖書が記さなければ、歴史の記録に残らない人生です。
一方で、ダビデの人生は実績・功績から見て、素晴らしい人生でした。戦がうまく、詩人でもあり、イスラエル建国の父と称えられます。その名はイスラエルにとどまらず、世界において知られています。二人の人生の違いは、この世的には明白です。キリスト者にとってダビデは、偉大な神の器となった人です。
本論 2 信仰者としての生き方の視点
見方を変えて、信仰者としての観点から二人を見てみましょう。ヨナタンは、ダビデこそ二代目の王になることがふさわしいと考えていました。(サムエル記第一19:1)それが神の御心であったからです。これは簡単なことではありません。ヨナタンも夢や欲を持つ一人の人間ですから、父サウル王の後を継ぐ希望を持ってもおかしくありません。しかし、彼は神の御心に従い、ダビデこそ次の王にふさわしいと受け入れました。それが神の御心だと了解したのです。王の位を受け継ぐのは、人間の欲や血筋ではありません。しかし、晩年のダビデは血筋による継承に固執します。このために、子どもたち同士の争いが起こり、父ダビデのいのちをも狙う子どもが出てきます。その確執の中でソロモンが後継者となりますが、その後は国が分裂する悲劇が待っていました。
ダビデが信仰に生きた人であることは、多くの人が認めるところです。しかし、彼の人生のすべての部分で、信仰深かったわけではありません。聖書に記されたダビデの人生の記録を見ると、最も彼が神さまに信頼をもって誠実に生きた時期は、サウル王から命を狙われ、各地を転々とした苦難の時期でした。詩篇に残された祈りの言葉は、多くがこの時期のものです。そして、彼の信仰がマンネリ化・停滞かしてきたのは、イスラエルを統一し、繁栄を築いた時でした。晩年の死期が近い時のダビデの言動は、信仰の歯止めが弱くなっていました。
本論 3 私たちは、何に心を留めるのか
世の中の価値観や歴史観に照らして考えると、偉大な人生(功績)を歩んだのは、ダビデでありヨナタンではありません。それは、ダビデに与えられた王としての賜物・機会・能力でした。彼は人生をかけて、命がけでその働きを全うしました。サウル王はその職務を全うできませんでしたが、ダビデは困難にめげず成し遂げました。称賛されることです。世の中は、ダビデに注目します。これに対して、ヨナタンは陰でダビデを守り、父サウル王に死に至るまで誠実に歩みました。サウル王は理解しませんでしたが、彼は良き子どもたちに恵まれていたのです。(ダビデの家族と違って。例としてサムエル記第二16-18章と列王記第一1章を参照)
一方で、信仰の面に目を向けると、別の風景が見えます。ヨナタンは家族にも神にも誠実な歩みをしました。彼の謙虚な信仰は、私たちのお手本・模範となります。ダビデは、どこで道を踏み外したのでしょう。繁栄・おごり・油断・権力への執着が、彼をいつの間にか信仰の枯渇へと歩ませていきます。苦難の時に神を求めやすく、安泰の時には神と距離が出来ます。「うえ渇き」や「問題を抱える」ことは、信仰にとって恵の扉です。
まとめ 世の中の価値観に流されない
世の中は、偉人や功労者をたたえ・賞します。その人たちは、確かにそれに値する人ですが、神の賜物(タラント)の観点から見れば、「為すべきことをした人たち」とも言えます。尊敬はしても羨むこととは違います。私たちには、それぞれに個別の人生があり、その中で信仰の歩みを高めることが期待されていることに心を留めましょう。「私はこのように信じ、そのように生きる」ことが大切です。
祈りましょう。